医療介入とは 109 どこまで対象を把握するのか

久しぶりの「医療介入とは」のタイトルです。

 

このブログはもともと1980年代から2000年代ごろまでの「自然なお産」の流れを考え直していくうちに、人類の長〜い歴史の中で出産に医師が立ち会うようになったという驚異的な変化の時代への葛藤でもあったということが見えてきたことをつらつらと書きはじめました。

 

いきつ戻りつ考える中で、今から40年以上も前に学んだ「科学とは事象の中にひそむ法則性をすくいあげて一般化した認識である」「どのような小さな看護実践にもそれが看護である限り、その中に看護の論理をつかむことができる」といった「科学的看護論」を思い返していました。

 

*対象を把握することとプライバシー*

 

その一歩として、対象の観察の大事さが書かれていたことを鮮明に思い出しています。

日常生活の援助という看護あるいはケアの基本に必要なのは対象の観察と全体像を把握すること、といった感じでした。

他の学校ではどう教わっているのかはわかりませんが、おそらく同じような方向性できているのではないかと思います。

 

ですから入院すると患者さん自身のことだけでなく、「家族歴」を聞かれた方も多いのではないかと思います。両親は何歳で、兄弟姉妹は何人いるか、それぞれの健康状況はどうかなど、対象の把握として大事な情報として学びました。

 

ところが以前、外国籍の方から「なぜ家族というプライバシーを話さなければならないのですか」と質問されました。

「産科の場合は、妊娠中に家族的な疾患がハイリスクになることもあるし、経済状況や産後の手伝いはどうかなどご家族が赤ちゃんをより良い状況で迎えられるようにしたいから」「スタッフ間以外は口外しないので」「ただし万が一の母子の搬送時には緊急時でもそのまま情報を搬送先に正確につたえられるので」と答えたのですが、納得されなかったようです。

 

こちら側としては相手の状況を把握していれば、より早く問題に「介入できる」と思っていたのですが、なぜ家族についてなど事細かに聞くことを当たり前と思っていたか考えさせられる機会でした。

 

以来、「プライバシーなので話したくなければ無理に話さなくていいですよ。何か困ったらまた伝えてください」と付け加えることにしています。

 

 

*問題解決のためにどこまで把握するか*

 

 

あれから20年ほど経って、「産後うつ」や「虐待」というニュースが増えるに従って日本では退院後の母子に何かあると出産施設や保健センターあるいは児童相談所の責任もさかのぼって問われるような雰囲気になりました。

社会全体で解決していくために良かれと思って情報を把握して「介入」していたことが、「把握していなかった」「見逃した」「対応が不十分だったのではないか」という捉え方になってしまったかのようです。

これでよかったのだろうかと悩むことも増えました。

 

最近では看護記録などにも、おそらく医療従事者以外の方にしたら「他人に見られたら、と思うとゾッとする」ような「充実した記載」が増えました。

それは決して「プライバシーを暴く」ためではなく、対象を把握するための観察方法が少しずつ築かれた半世紀ほどだったからかもしれません。

 

ただ、どこまであらかじめ対象を把握するのか手探りの状況ですが、最近では「やっていなかった」と思われることへの防衛的な反応の部分もあるかもしれませんし、積極的に介入することのやりがいが医療やケアの独善性へと向かう可能性もありますね。

 

なんでも「データを共有」ではおさまりきらない現実の多様な記録をマイナンバーカードに紐付けてどうするのか。

どのような医療を目指しているのか、どこまでプライバシーに介入して良いのか、漠然としてイメージが湧きませんね。

 

医療やケアを良くしたいからと対象を丸裸にするかのようにプライバシーを把握してもよい力を持ったら、それは怖いことですから。

 

 

 

*おまけ*

 

昨日引用した記事はとても参考になったのですが、最後にこんな一言がありました。

法律は通ったとしても現場に寄り添うきめ細やかな運用が欠かせない。

どうもこの「寄り添う」という言葉で社会の問題を表現してしまうと、言語化・理論化よりも独善性への落とし穴のようでちょっと気になるのです。事実を追う仕事をされている方にはあまり使ってほしくない表現の一つです。

うまく言えないのですけれど。

 

 

「医療介入とは」まとめはこちら