小金がまわる 1 <助産師の小金がまわる世界>

人ごみの中を歩いていると、こんなに多くの人の生活が成り立つお金はどこから出てくるのだろう、と時々ちょっとめまいを感じることがあります。


皆、本人か家族がなんらかの仕事をして現金を得るからこそ、こうして服をきたり携帯電話を持って歩き、どこか食事や遊びに出かけているわけです。
それぞれの人に帰る家があり、その家にはたくさんの家具や物があることでしょう。
光熱費や通信費も考えると、一人につきどれくらいのお金が動いているのだろう。
そしてここを歩いている何百人、何千人の人がそうして生きている・・・・そう考えるとくらくらとするのです。
ええ、経済に本当に疎い私ですから。


この感覚とはまた逆のめまいが、東南アジアで暮らしている時にはいつもありました。


途上国にいくと貨幣価値が10倍ぐらい違いますから、20代の私でも、大金持ちまではいかなくてもお金持ちの存在でした。


そういう国では、仕事がない人もたくさんいました。家族のだれかのわずかの現金収入に頼って、親戚も生きているような家族がたくさんいました。


でも、皆それなりに生きています。
どうやって食糧を手に入れるのだろう。どうやって交通費を捻出しているのだろう。
お金がないのに、どうしてこれだけの人が生きているのだろうと。


なんだかわからないけれどとにかく物流があり、多くの人が生き暮らしているのです。


<小金がまわる>


しばらくその国に暮らして生活をみているうちに、「狭い範囲で小金がまわって成り立っている」のではないかと思いつきました。


まず日本との違いを感じたのは、何軒かに1軒は家の一部を改造して小さな商いをしていることでした。
野菜や卵、菓子などの食糧や日用品、タバコ、そして燃料まで扱っています。


こちらの記事に書いたように、少しまとまったお金ができると市場で日用品などをまとめ買いして、それを市場より少し高い値段で小売りするのです。
買うのは近所の人たちです。
タバコを1本、卵を1個、あるいはそれこそネスカフェを1杯分というように。


自分で市場に出かける交通費を考えると、少し割高でも隣の家から購入したほうが安いようです。


こうして小さな地域で小金がまわり、現金収入になっているのでした。


商業に携わっている人が身近にいればここまで驚くほどのこともなかったのでしょうが、親も兄弟もそして私もサラリーマン的な生活しかしていなかったので、こうして成り立つ小さな経済圏があることが印象深く残りました。


代替療法も小金がまわるシステムのひとつ>


ここ数年来、助産師と代替療法について考えてきました。
効果が検証されていないものを効果があるかのように広めることに対しては、「標準医療と代替療法」という枠組みの中で考える必要があるかもしれません。


私には代替療法というのは、あの小さな地域で小金がまわる経済システムと重なるのです。


きちんとした商品管理ができる店がない地域では、誰もが日用品や食品を売ることを商売にできます。
同じように医療が整っていなければ、その分、誰かが加持祈祷や薬草などの民間療法で対応することになり、生業になっていったのでしょう。
あるいは人の心を受け止められる才能がある人には、学校に通う経済力や資格がなくても天職をつかみ取ることもできる社会の柔軟性もあったのかもしれません。


そして地域の中で小金がまわり生活がなりたつのであれば、それはそれでその社会に必要だったのだろうと思います。
その小金さえまわらなければ、路頭に迷う人も出るのですから。


助産師の小金がまわる世界>


最近の代替療法ブームの陰には、もしかしたらこうして小金で生業を得なければ生きて行けない人が増えたのではないかと思えるのです。
一見、学歴も高くなり豊かさを保った日本ですが、実は人の能力を生かすための就業の機会が整っていないのかもしれません。


助産師もまた出産や育児で医療から離れると、再就職する機会は厳しくなります。
なので、こちらで書いたように1948年に医療と医療類似行為が線引きされたにも関わらず、助産師があえて小金をまわすための代替療法を「開業」として取り込んだという一面があるのではないでしょうか。


あと20年、30年後の周産期医療を考えると、臨床を離れた助産師がその能力を標準医療に沿って生かして行けるようなシステムを考える必要があると思います。


産後ケアとは少し離れた話題ですが、のちにつながって行くとおもいますので、この「小金がまわる」は不定期に続きます。





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