助産師と自然療法そして「お手当て」 26 <「誕生前後の生活」が書かれた時代 1>

前回、野口晴哉氏の「誕生前後の生活」(全生社、昭和53年)の序文を紹介しました。


本文では、たとえば予定日超過の妊婦にどう対応するか、新生児仮死への対応などかなり医学的な「治療」の領域に踏み込んだ内容が書かれています。
こちらの記事で紹介したように、野口晴哉氏は1948(昭和22)年以降、「病を治すことよりも人間の力を引き出して健康に導く自らの活動を『体育』と位置づけ、『治療』を捨てることを決意した」ようです。


それまでの「治療者」として活動していた野口晴哉氏にとって、その後上記本を出版するまでどのような時代であったのか、その背景を考えてみようと思います。


<「医療類似行為」に線引きが行われた時代>


社団法人「整体協会」のHPの「野口晴哉氏について」に、氏の経歴が書かれています。
1911(明治44)年に生まれ、15歳で「道場を開き、愉気(ゆき)と活元運動を主体とした療術団体」を設立し、17歳で「健康に生くることが自然順応の姿であるなどとする『全生訓』を発表とあります。


15歳で健康に関して何かを悟り組織を作ることもすごいと思うのですが、まだ国民の一部しか近代医学を受けることができなかったこの時代には、おそらくこうした団体が林立していたことでしょう。


15歳から始めた治療師としての活動ですから、1948(昭和22)年頃であれば経験量も増えて実績もある年代ではないかと思います。
その年代に「治療を捨て」ざるをえない背景には、その年に出された「あん摩師・はり師・きゅう師に関する法律」で医業とその周辺行為、さらにそれ以外のものにはっきりと線を引く時代に入ったことが大きいのではないかと思います。


野口晴哉氏が「治療師」として行っていたことは、「治療とはいえない」ものであることが社会的に明らかにされたと言い換えられるでしょうか。


では、「あん摩マッサージ師・はり師・きゅう師」はなぜ、医療類似行為として法的に認められたか。
それは「治療効果」が認められたのではなく、「人体に直接触れ、人体に危害を与えるおそれのある」療法に関しては医学に基づいた教育と資格が必要になった、という時代の変化であるといえます。


ですから直接体に触れてもんだり、さすったりするマッサージも、上記国家資格がなければ、マッサージを称することは違法になります。


そのために助産師の乳房「マッサージ」に対しても、1960(昭和35)年に通達が出されて、あん摩マッサージ師らとの法的根拠の争いに決着がついたことはこちらこちらの記事で書きました。


<医療類似行為と科学的な議論>


「あん摩マッサージ師・はり師・きゅう師」そして「柔道整復師」が代替療法の中でも国家資格を与えられたことは、「人体に直接触れる行為」には医学的な知識と資格が必要とされたこととともに、それまで治療効果を謳っていたとしても科学的根拠がなければそれが認められなくなったということになります。


GHQが「あん摩や鍼灸は非科学的であり不潔である」と禁止にしようとした背景には、当時、アメリカでのカイロプラクティックの問題があったのではないかと推測できます。


代替医療のトリック」(サイモン・シン&エツァート・エルンスト著、青木薫訳、新潮社、2010年)から引用します。

 その間、本家のアメリカでは、カイロプラクティックの哲学や方法を認めない医療界の主流派から圧力が高まっていた。医師たちは、免許もなく医療を施した罪でカイロプラクターが逮捕されるよう働きかけ、1940年までには、一万五千件を上まわる告発がなされた。
(中略)
 法廷で争うという方法では、カイロプラクターの熱烈な帰属意識に水をさすことはできなかったため、米国医師会は新たな作戦に出た。その動きは1963年の「いんちき医療に関する委員会」設立をもって最高潮を迎えた。(p.212)

現在の整体にはカイロプラクティックが含まれているようですが、いつ頃から日本に入ってきたのか詳細はわかりませんが、1970(昭和45)年には、カイロプラクティックはあん摩マッサージ・指圧とは区別されるという政府の見解が出されています。


GHQは本国でのカイロプラクティックの問題と、日本の代替療法の林立を同一の問題としてとらえたのではないかと推測します。


代替療法のトリック」から続けて引用します。

 そこまで反発する米国医師会はおかしいと思うかもしれないが、医療界の主流派がカイロプラクターを嫌うのにはいくつか理由があったことを思い出そう。たとえば、カイロプラクターがイネイント・インテリジェンスという非科学的なものを信じていることや、多くの病気は細菌やウィルスによって引き起こされるという事実を認めようとしないこと、さらには脊椎のズレをもとにもどしてやりさえすればどんな病気でも治せると信じていることなどだ。

イネント・インテリジェンスというのは「生命力や生命エネルギーのようなもの」と訳されていて、その流れが妨げられると「そこからありとあらゆる健康上の問題が生じる」という考え方のようです。

それに加えて、通常医療の医師たちは、カイロプラクターの多くが《Eメーター》という奇妙な装置を好んで使っているという事実にも驚かされた。Eメーターは、1940年代半ばに、ヴォルニー・マチソンというカイロプラクターにより発明された装置で、患者が二つの端子を握ると、目盛りの上で針が振れるしかけになっているーそれを見れば、患者の健康状態がわかるのだという。

 米国医師会に関する限り、話がこじれたのは、カイロプラクターの多くが、患者の主治医になりたいという願望をもっていたからだ。つまり、カイロプラクターにも定期検診や長期的予防治療はできるし、多くの病気を治療することもできるのだから、一般開業医に取って代わってもいいはずだというのだ。


1940年代前後というのは、日本だけでなく医療と代替療法を整理する時代だったといえるかもしれません。


こうした時代背景をみると、野口晴哉氏は自分が信じて「治療」してきたことを否定されても、決して納得はしなかったのではないかと思います。
それが「何かに頼ることなく自らの足で立つことを指導理念にあげ」という言葉につながっていくのかもしれません。


次回は、「誕生前後の生活」が書かれた頃の産科の変化について書いてみようと思います。




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