水のあれこれ 387 久米池と新川沿岸導水記念碑

琴電水田(みずた)駅から久米池へ向かう途中で渡った川が新川で、地図ではその少し南側から北へと向きを変え、そのあたりからまっすぐ流れたあと、河口近くの潟元で北西へと向きを変えて春日川と合流して瀬戸内海へと流れ込みます。

 

地図では、この日に渡った橋のそばに両岸とも水色の細い線が描かれていて、てっきり上流側から流れてきた支流が合流しているのだと思っていました。

実際に歩いてみると堰があり、細い水色の線は川の流れとは反対に上流側の田んぼへの導水路のようです。

 

日本各地に「新川」があってそれぞれの背景があるのですが、高松の場合は江戸時代ごろでしょうか、それとも放水路のように見えるので明治以降でしょうか。

 

この新川の歴史がWikipediaにありました。

新川の西側に流れる支流の春日川は元は一つの河川であり、東山崎町付近で現在の春日川へ合流していたと考えられている。古墳時代に新川は春日川から切り離され、その際川名を新しい川という意にちなんで新川と名付けた。また、中流の三木町大字平木付近の人工的な流路形成は、条理制施行時代の流路変更によるものと考えられている。

Wikipedia、「新川(香川県)」「概要」)

古墳時代からの「新川」だったとは。

 

 

 

*久米池のそばにあった新川沿岸導水記念碑*

 

新川の右岸から久米山の坂道を上ったところに、久米池の大きな水面が見えます。

 

さすがひとつひとつのため池の歴史がまとめられている香川県ですから、久米池の説明もありました。

久米池(くめいけ)

 久米池は、旧古高松村(高松市高松町・春日町・新田町)で最も大きいため池です。築造の由来については「久米池老朽工事竣工記念碑」の碑文に「寛永年間讃岐の藩主生駒高俊(第四代)が伊勢より西嶋八兵衛を聘して、旱魃救済の為各地に溜池を築造させしめた其の一つであると伝えられている。」とあり、おおよそ四百年余にわたって地域の水田を潤してきました。久米池の名前については、池の南側に久米池があり古くには巨刹「久米寺」があったと伝えられていることから、寺の名前が由来と考えられており、昔から地域の人々に「久米さん」と呼ばれ親しまれています。

 また、久米池は「新さぬき百景」に選ばれており、南側に佇めば池面に屋島が逆さに映り風情ある景色が望めます。更に、希少植物であるアサザが現存しており、6月〜10月に黄色い可憐な花を咲かせ人々の目を楽しませています。平成14年度に県営ため池等整備事業 古高松南部地区の一環として遊歩道等の周辺環境整備が完了していますが、事業実施前の調査で判明したアサザについては、環境保全組織「アサザの里・久米池」を設立し保全に務めています。事業完了後も、周辺の小学校の環境教育と併せて保全活動を継続して行なっており、眺望美しい久米池を後世に伝えるため、地域ぐるみで活動を行なっています。

香川県公式ホームページより)

 

四百年余り前の「旱魃救済」、どんな時代だったのでしょう。

 

 

*「新川沿岸導水記念碑」*

 

久米池全体を望める場所に、黒光りする小さな石碑がありました。

近づいてみると「新川沿岸導水記念碑」でした。

 

 疏水千里

遠く吉野川から

いまこの地に 恵みの水来る

水は限りある 貴重な資源である

先人の水との闘いに 想いを馳せ

その有効利用を誓わん

 

そして新川右岸のため池を水路で繋いだ図が彫られていました。

吉野川の水が山を越えて、東部幹線水路でこの地まで流れている「友情の水」の証でした。

 

 

この日、数時間前は水のあふれる伊予西条にいたのに、同じ瀬戸内海沿岸でも愛媛県から香川県に入ると全く違った水の歴史がありました。

あの大久保甚之丞の「山を越えて水を通す」という夢が1世紀後の1974年にかない、さらにその吉野川の友情の水が愛媛や香川県を潤すようになってからちょうど半世紀の風景でした。

 

 

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