「褒める(ほめる)」は日常的な言葉ですが、「称える」になるとあまり使わないので読めないかもしれませんね。
今日のタイトルは「ほめたたえる」です。
唐突ですが、散歩をしている時には、地形とか風景や道ばたの植物だけでなく、人の言動も観察しています。
2、3ヶ月ぐらい前だったでしょうか。
私と同じ世代くらいの女性が、やはり私の母と同じぐらい年齢の杖をついている女性と歩いていました。
ゆっくりな高齢の女性の足取りに合わせた歩き方で、娘さんかなそれともヘルパーさんかなと観ているうちに、少し会話が聴こえて来ました。
「今日ね、〇〇を作ったらとても上手だって褒められたの」
「それは良かった!もともと器用だものね」
会話のニュアンスから、娘さんだと推測しました。
きっとデイケアの帰り道で、手芸か何かをした日だったのでしょう。
娘さんと思われる女性の褒め方がとても自然で、心から楽しそうに二人で喜んでいるのが伝わってきました。
ああ、今の私に一番欠けているものかもしれないと心が疼きました。
*褒めることを躊躇してしまう*
仕事上で出会う妊産婦さんや新生児には、「頑張りましたね!」「それでいいと思いますよ!」と素直に言葉が出てきますし、年を重ねるにつれてそれなりに褒め上手になってきたのではないかと思っています。
ところが、母に対してだけは素直に褒められない気持ちがあって、面会に行くたびに葛藤がありました。
父は「自分のことを褒めて欲しい」と思うような言動がほとんどなくて、唯一、「わしの運転はうまかっただろう」と尋ねて来ることがありましたが、それも認知症の進行と共に聞かれなくなりました。グループホームにいた頃はまだ本当に器用に絵を書いたり、習字も達筆でスタッフの方々だけでなく私も心から「すごい!」と父を褒めていましたが、褒められることへの欲望のようなものを感じさせることのない父でした。
母は反対に、老いとたたかうなかでの愚痴や不満か、「見て、うまく描けたでしょう」「みなさんにも褒められたの」と自分の話に終始する感じです。
あ〜、母は私が子どもの頃からこういう人だったな。私が何を楽しいと考えているのか、私の友人はどんな人たちたのかも聞かれたことがなかった。家を離れてからも、私の仕事や生活にまるで無関心かのようだった。
つい、子どもの頃からの母へのこちらの思いが出てきて、母の褒めて欲しいという気持ちに対して、私のことは褒めてくれなかったのにと心が頑なになってしまいそうです。ですからさらりと、「ふ〜ん」と聞き流すことが多くなっていました。
でも、あの散歩の途中で耳にした娘さんらしき女性の素直な褒め方に、ちょっと心が動きました。
次の面会に行ったら、母が褒めて欲しいと思ったことに応えて見ようと。
最近の母は、ボールペンで手紙を書くのも「疲れるし、うまく書けない」と、筆不精になりました。実際に書いたものを見ても、字が不揃いでまっすぐに書けないようです。
ところが、習字になると別人のように達筆です。確か50代頃から少し自己流で写経をしていたくらいで、本格的に習っているわけではなさそうです。
「お母さん、すごくうまく書けているね」とこちらから話しかけたら嬉しそうに、一言。「この歳になっても褒められると嬉しいわね。でも私はあなたのことをあまり褒めたことがなかったわね」と。
最近の私は「ケアする側」として母に接していて、子どものように「見て見て!」と存在をかけてくる母のことが、少し煩わしかったのかもしれません。
「褒めた称える」気持ちになれば、もう少し対等な関係を築けるかな。
そんなことを思いました。
現実は、またきっと葛藤の繰り返しかもしれませんが。
「ケアとは何か」まとめはこちら。