記憶についてのあれこれ 53 <八ッ場ダム>

昨日の記事で触れた八ッ場(やんば)ダムですが、なぜ1990年代の八ッ場ダムについて記憶があるかというと、実際にその建設予定地を訪れたからです。


村井吉敬(よしのり)氏とその研究仲間の方々と、埋没予定地であった川原湯温泉の養寿館を訪ね、「八ッ場ダムの闘い」(岩波書店、1996年)の著者であり、建設反対運動をされてきた萩原好夫氏に話を伺ったのでした。


その著書が出版されて間もない頃だったと思います。


養寿館の20畳ほどの広間に座って萩原氏が静かに語り、そして村井氏も静かに耳を傾けて時々質問されていた情景が目に浮かびます。


Wikipedia八ッ場ダムの説明には「着工年1967年/竣工年2015年」とあります。
これが何を意味するのか。


「沿革」にはこのように説明されています。

吾妻川流域の多目的ダム建設計画は、1949(昭和24)年に経済安定本部の諮問機関である治水調査会の答申に基づき、建設省によって手掛けられた「利根川改修計画において、利根川に10カ所のダムを建設する利根川上流ダム群(後の「利根川水系8ダム」)計画に準拠しており、カスリーン台風後の水害から首都・東京及び利根川流域を守るために1952年(昭和27)年に計画発表された。
当初は堤高115.0m、総貯水量73,100,000tのダムとして計画されていた。だが支流の白砂川や万座川から流入する強酸性の河水のために吾妻川本流には当時の建設技術ではダム建設ができず、いったん計画は凍結された。(中略)
しかし、1965(昭和40)年に品木ダム及び草津中和工場を中心とする中和事業「吾妻川総合開発事業」によって吾妻川の水質が改善した事から、1967(昭和42)年現在の地点にダム建設を決定した。
この間、首都圏の水需要増大に対応するため計画規模を拡大し、矢木沢ダム利根川)・下久保ダム(神奈川)に次ぐ規模の1億トンダムとして事業が発表された。

20年ほど前に建設予定地にいった時にはまだ川原湯温泉はあって、これからここがダムの底に沈むとは信じられないほど、工事は進んでいない時期でした。


その品木ダムと草津中和工場も、その後、見に行きました。
上流にある草津温泉などから流れてくる水に、石灰を混ぜて中和させているとのことでした。
水質が維持できなければ首都圏の水瓶としてのダムには使えませんから、当時はダム本体工事以前の周辺の整備が行われていました。


萩原氏のご子息は私と同世代ぐらいだったと思いますが、私たちが生まれる前に計画されたダムによる立ち退き問題に直面してから、1990年代半ばに訪れた時まで、いえ今もなお住み慣れた場所を移転し生活を再建していかなければいけない問題に苦悩している方々がいること、それが「着工年1967年/竣工年2015年」の意味でした。


その63年の間に、ダムの当初の目的であった治水だけでなく、首都圏の水源、そして電源と多目的ダムへと変化してきました。


私たちが川原湯温泉を訪れた頃は、「本当に100年に一度の水害のための治水効果があるのか」という技術面あるいは大規模公共工事への批判が高まっていた時期でした。


同じ頃、日本は海外援助として国内と同じような大型のインフラ事業を途上国へ行おうとして、その地域の住民の立ち退き問題や環境への影響など途上国側からの批判が起きていました。
村井吉敬氏はODA調査研究会を作り、その仲間とともに自発的な現地調査を行っていました。その延長上で国内の問題にも関心があったのだと思います。



冒頭でリンクした「エビと日本人」で書いたように、村井吉敬氏は当事者の話には静かに耳を傾ける方でした。
川原湯温泉でも、その姿勢は変わりませんでした。


萩原氏のお話で印象に残ったのはこんなことでした。
川原湯温泉は、著名な文豪も長期に滞在する温泉だった。ある日突然、ここがダムの底に沈む計画があることを知った」
「最初は建設省の役人と住民の間には深い溝ができて話し合いなどできない状況だったが、現地事務所の役人と少しずつ関係ができ、お互いの考えを出し合えるようになった」
「反対運動が高まると、外から活動家が入り込むことで住民の亀裂が深くなることもある」
「だんだんと住民のなかでも反対する人と、積極的に立ち退いて新しい生活を再建しようという人たちに分かれていった」
「ダム建設予定地になると、(補償額の関係から)家の改修工事もできなくなる。新築も当然禁止されている。長い事、立ち退き問題の決着がつかない中で自分たちの家や生活をどうするかさえ、自分たちで決められない状況が続く」
「私の息子たちのように若い世代は、移転先で新しい生活を始めた方がよいと考えている」


民主党政権が2009年に八ッ場ダムの中止を決定し、久しぶりに八ッ場ダムがニュースで連日のように伝えられる中、私はあの日の萩原好夫氏の答えのない苦悩とそれを受け止めていた村井氏の二人の姿を思い出したのでした。


そして一昨日、八ッ場ダム起工式が行われ、平成31年度中に完成する予定という報道がありました。





*2021年8月26日追記*
完成した八ッ場ダムを訪ねた記録はこちら




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