日本向けのオクラがどのように生産され輸出されるのか、「日本向け、オクラ」で検索するだけであっという間に会社の情報などがわかりこちらの記事が書けました。
1990年代までは、こうした情報を得るまでに何ヶ月も何年もかかりました。
それはインターネットのおかげもひとつあるのですが、もうひとつは長い間の軍事独裁政権や開発独裁政権から民主化が少しずつ進んでいることもあるのかもしれません。
「バナナと日本人」や「エビと日本人」が書かれた1970年代から80年代の東南アジアでは、こうした労働者に接して話を聞くことさえも双方に危険がありました。
90年代に入っても、私がその日本の端境期向けの野菜栽培を始めた人たちに話を聞くためには、かなり慎重に準備が必要でした。
農家の人たちに話を聞くために村を訪れるためには、訪れる目的を説明して村長の許可が必要でしたから、現地の人脈がなければまずは村にさえ入れませんでした。
また貧困や搾取といった社会問題を前面に出せば、警戒されるだけでなく、関わった現地の人たちが私兵や時に政府軍によって嫌がらせを受けたり、時に殺害されることはこちらの記事に書きました。
農家といっても小作農で、種の購入から出荷までをアメリカ資本の会社が提示した通りにしなければならないシステムのようでした。
その会社はどのような組織なのかを知りたくても、なかなか情報は得られませんでした。
当時に比べると、7月4日の記事で紹介したオクラの現地法人のHPには圃場からパッキングセンター、そして空輸されるまでがスライドで紹介されているなど、働く人たちがとてもよくわかります。
少しは働きやすい時代になったのだろうと、少し安堵しました。
<アシエンダ制>
グリーンスター社のHPの「生産の流れ」には30枚のスライドが見られるようになっていますが、「圃場の全景」を見ると、広大な農地で見渡す限りオクラが植わっています。
その圃場はタルラック州にあるようです。
Wikipediaでタルラック州を見てみると、「コラソン・アキノの父ホセ・コファンコの興したホセ・コファンコ・アンド・サンズ(Jose Cojuangco and Sons Inc. JCSI社)傘下のアシェンダ(大農園)を擁する」とあります。
アシェンダの「アシェンダの経営と労働力」には以下のように書かれています。
19世紀後半になると、欧米諸国による大投資プランテーション農業がラテンアメリカから持ち込まれた。これらの農場は栽培加工の新技術、賃労働の大量雇用など、資本主義的経営体としての性格を持っていたが、旧来の半農墨的労働制度を最大限利用した点で、アシェンダと類似性を持っていた。
80年代に東南アジアで暮らして驚いたことのひとつに、日本では過去のものとなった大財閥の存在がフィリピンだけでなく各国にあることでした。
コラソン・アキノ氏はエドウサ革命でマルコス独裁政権を倒し、フィリピンの民主化の象徴のようになった元大統領ですが、当時、その足元にある自身のアシェンダの民主化についてはなかなか進まず批判があったと記憶しています。
財閥の親族などの生活は、日本人の「富裕層」のイメージをはるかに越えた経済力でした。
広大な「圃場の全景」と、「収穫の様子」や「パッキングセンターへの搬送」のスライドの中で働く人たちの生活はどうなのでしょうか。
たしかに「賃労働」という雇用の増大には大きな社会貢献があることでしょう。
私がホームステイさせてもらったバナナプランテーションで働いていた人も、雇用さえ続けば子どもを高校や大学まで通わせることもできるようになりました。
ただ、時々テレビで見かける東南アジアの各国の風景を見ると、生活は30年前とほとんど同じような印象です。
オクラを収穫している人、パッキングセンターへ運ぶバイクに乗っている人を見ると、こうした国の労働者の生活のレベルがあの当時とあまり変わらないのではないかと気になってしまいます。
不安定な雇用であり、貧富の格差はそのままなのではないかと。
さらに日本の端境期を埋めるためのオクラであれば、端境期以外にはあの近代的なパッキングセンターで「衛生基準に基づく作業前準備」をして「箱詰め」まで従事している人たちは、季節労働ではないかと気になります。
まあ、30代の頃ほどは「大資本や多国籍企業による搾取」だと正義感でいきりたったり思考停止にならないようにはなってきましたが。
「バナナと日本人」を書かれた鶴見良行氏や「エビと日本人」の村井吉敬氏も、これらの本を書かれるために、こうしたご自身の感情を抑える時期があったのかもしれません。
お二人が生きていらっしゃったら、「オクラと日本人」というタイトルでどんなことを書かれることでしょうか。