母乳育児という言葉を問い直す 1 <「母乳育児」という言葉が使われ始めたのはいつ頃か>

「あまり理論化を急がないほうがよい」鶴見良行氏の言葉を紹介しました。

もう一回こまかな事実をきちんと出していくことが重要なので、あわてて理論とか構造とかを立てる必要はないと思うのです。


理論化や方法論化を急ぐと、新たな言葉がたくさん生み出され、まるでそれが現実にあるかのような理解が先に広がってしまうこともあることでしょう。


「母乳育児」という言葉もそのひとつです。


「母乳育児」って何でしょうか?


私もブログの中で何か所か使ってしまっているのですが、社会に広がったその言葉を使った方がわかりやすい文章になる内容の時にとどめています。
というのも「母乳育児」という明確な定義もないので、私にとっては「この言葉を使う事で何を表現することになるのか」というところでの戸惑いが大きい言葉なのです。


「母乳育児」という言葉をつかっただけで、何かその状況がわかったような気になる。
まさに思考停止させる言葉だと思います。



<「母乳栄養」から「母乳育児」へ>


あくまでも私の記憶と、手元にあるわずかの教科書や周産期医療の資料からなのですが、私が助産師になった二十数年前には「母乳育児」という言葉を耳にしたことはありませんでした。


助産師学校時代の教科書「母子保健ノート2 助産学」(日本看護協会出版会、1987年)の中では「母乳栄養」という言葉が使われています。


「母乳栄養確立のための授乳指導」(p.373)の中で以下のように書かれています。

母乳栄養に成功するための第一の鍵は、新生児が母の乳頭をくわえて、きちんと吸収ができることである。産褥初期の母子は、必ずしも何の準備も援助もなしに、容易に母乳栄養が確立するとは限らない。母となった喜びを損なうことなく、円滑に授乳ができるよう援助することが大切である。


「母乳育児」ではなく「母乳栄養」という言葉を使っていますが、「助産師はどのように母乳育児支援を学んで来たのか」に書いたように、今読み返すとこの年代あたりが「母乳育児」あるいは「母乳育児支援」という言葉の出現につながっていく段階だったのではないかと思います。


というのも、何が「母乳栄養の確立」なのかも教科書では明示していないまま、「アメリカで始まった母乳推進運動の『本質』」に書いたような団体の考え方がそのまま教科書に取り入れられています。


そして、今日にいたるまで周産期看護の中では「母乳栄養の確立」という言葉が、いったい何を指しているのかのいう明確な定義もないまま使われているのです。


<栄養方法は育児の一項目にすぎない>


正直なところ「育児」とか「子育て」という言葉にもしっくりこないものがあるのですが、便宜上、育児を使います。


助産師の中では1980年代から「母乳育児」を意識した「母乳栄養」という言葉が使われ始めたようですが、同じ「母乳栄養」という言葉も、小児科や保健センターなどでは2000年代までは純粋に「栄養」を指していたのかもしれません。


たとえば私の住む自治体で2000年代前半に使われていた、保健センターの両親学級のテキストでは「栄養」というページで「母乳栄養・人工栄養・混合栄養」について説明されています。
「赤ちゃんにとっての栄養は、母乳が最善であることはいうまでもありません」と書かれていますが、内容自体は赤ちゃんの成長が目的であって、「母乳栄養の確立」といった表現はありません。


また、「小児科学・新生児学テキスト」(診断と治療社、2000年)や「ベッドサイドの新生児の診かた」(南山堂、2009年)の中では「母乳栄養」が使われていますが、やはり新生児や乳児の成長・発達にあわせた栄養方法の視点からかかれています。


特に上記2冊の新生児学では、母乳のメリットや母乳栄養の体重増加の特徴などが書かれていて、体重増加だけで過不足を判断しなくてよいことが明らかにされつつあることがわかります。
そして同時に母乳のデメリットも明確にされて、あくまでも乳児の最適な発育が目的だという内容になっています。


医学書にも「母乳育児」という言葉が使われ始めた>


2000年代後半になると、「母乳育児」という言葉が使われた周産期関連のテキストを見かけるようになりました。
私の手持ちのの本にもいくつかあります。
「母乳育児支援スタンダード」(日本ラクテーション・コンサルタント医学書院、2007年)、「よくわかる母乳育児」(水野克己氏・水野紀子氏・瀬尾智子氏、へるす出版、2008年)、「母乳育児感染 ー赤ちゃんとお母さんのために」(水野克己氏、南山堂、2008年)などです。


また「周産期医学 2012増刊号 Q&Aで学ぶ お母さんと赤ちゃんの栄養」(東京医学社、2012年)の中では、「母乳育児」や「完全母乳」という表現が多くなっています。


「母乳育児」ってなんでしょうか?
ということで、「完全母乳という言葉を問い直す」に続いて、この言葉をしばらく考えてみようと思います。




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