「餓鬼がやってくる」

小さい頃から父から教えられた「音を立てて食べると餓鬼がやってくる」とは、どういうことだったのだろうと気になりました。
子どものころはあの地獄絵図に描かれている、やせ細ってお腹がふくらんだ「餓鬼」を思い浮かべて、親の言葉通りに受け止めていましたが、成人してからはあまり考える事もありませんでした。


Wikipedia餓鬼では「生前において強欲で嫉妬深く、物惜しく、常に貪りの心や行為をした人が死んで生まれ変わる世界」と書かれていて、それだけでちょっとドキッとして「地獄行きだけは勘弁してください」と反省しそうです。


さらに「『正法念処経』では36種類の餓鬼がいると説かれている」という説明とともに、その36種類の餓鬼の説明が続きます。
これまた、何か一つか二つは心当たりがありそうでドキッとしますね。


「正法念処経」は5世紀ぐらいに書かれたもののようですが、その頃に、これだけ人間の行動が観察されて分類されたこと、そして古さを感じさせない事に驚きです。


<「五観の偈(ごかんのげ)」>


昨日の記事を書くために「曹洞宗、食事作法」で検索していたところ、初めて知ったのが「五観の偈」でした。
曹洞宗の禅寺で食事の前にとなえるもののようです。
リンク先から紹介します。

一つには功の多少を計り、彼の来処を量る
この一椀の食物は、たとえ一粒のお米、一茎の菜といえども、それが耕作され、種蒔かれて・・と限りない人々の手を経て、いま自分に与えられていることを思い、感謝していただきましょう。


二には己が徳行の、全欠を忖って供に応ず
こうして無限のめぐみによる食物をいただくについては、常に反省を忘れず、その恵みに値するよう、自己の向上を目指しましょう。


三には心を防ぎ、過を離るることは、貪等を宗とす
美食に向かえば貪りの心をおこし、粗末な食膳には怒りと不満をいい、毎日同じ食事にあえば愚痴をこぼす私達の心のゆくえを熱視し、これらの三毒の迷いを改めましょう。


四には正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんが為なり
薬は甘苦によって増減してはいけない。日々の食物は、この生命を支えるためにあり、美味・不味・好き嫌いの心を離れていただきましょう。


五には成道の為の故に、今此の食を受く
食物をいただいてこの身心を支えると共に、一切の生命に感謝し、この日々を自他の向上としあわせを目指し、毎日を大切に生きていきましょう。


曹洞宗の教えについてはよく知らないのですが、この「五観の偈」を毎食事に思い起こすことは36種の餓鬼に陥らないためなのかもしれません。


<餓鬼が子どものたとえになったわけ>


Wikipediaの「餓鬼」の「俗語の転用」に、「子どもは貪るように食べることがあるため、その蔑称・俗称として餓鬼(ガキ)が比喩的に広く用いられる」とあります。


「むさぼるように食べる」というのは「夢中になる」とも違い、周囲が目に入らない状況を意味するのではないかと思います。


皆で分け合って食べるところを自分が食べたい分だけ食べてしまうとか、人を不快にさせるような食べ方をするなど、他者の存在をどれだけ認識できるかというところかもしれません。


こういうことは小さい頃、特に「他者の存在」を認識し始める幼児の頃から繰り返し繰り返し、周囲の大人によって身につけていくものなのでしょう。


あ、ところで禅宗でも「音を立てて食べてもよい」ものがあるようです。
「禅の用語集」に「うどん供養」というのがあって、「食事のときは一切音をたててはならないが、このうどんをすする音だけは例外的に許容されている」と書かれています。
おもしろいですね。


連日食事について脈絡なく書いてきたのですが、「孤独のグルメ」は贅沢三昧のグルメというよりも、こころから美味しいと目の前の食べ物に感謝する番組、大人の番組だなあと感じたことがきっかけでした。


それにしても松重豊さんは、なんであんなにおいしそうに食べるのでしょうか。




孤独のグルメ」を観て書いた記事のまとめはこちら