反動から中庸へ 2 <規則授乳と自律授乳の時代の揺れ>

「規則授乳」という言葉は、すでに明治時代から広まり始めていたことを昨日の記事で紹介しました。
ただ、それは翻訳された育児書の中で紹介されていたという事実であって、必ずしも社会にその方法が取り入れられたという意味ではないようです。


この規則授乳がどのように広がり、そして自律授乳という言葉とのあいだでどのように揺れていたのか、もう少し詳しく書かれているものをさがしていたところ、「母乳がたりなくても安心」(二木武・土屋文安・山本良郎著、ハート出版、1997年)の中にありました。


1997年というと、少しずつ母子同室・自律授乳が日本の産科施設にも広がり出した頃です。
私は1980年代終わりごろから「先駆的」に母子同室やミルクを足さない母乳中心の施設に勤めていて、ちょうどこの本が出版された頃には反対にミルクをうまく使いながらお母さんたちに無理させない方法を模索していた頃でした。


著者の二木(ふたき)武氏は1925(大正14)年生まれの小児科の先生です。
この本の「母乳栄養の授乳法の発達」(p.64〜68)に規則授乳と自律授乳の変遷について書かれています。
長いのですが、全文紹介したいと思います。

 お乳の栄養でもっともすぐれているのは「母乳」です。そこで、人工栄養である「ミルク」の改良も母乳を手本としてすすめられてきました。
 当然、授乳方法についても母乳のやり方がモデルとなるわけです。しかし、授乳方式の考え方は時代により大きく変化してきています。母乳自体の出方(分泌状況)は昔から変化はないにもかかわらずです。この事実は、人工栄養方式に大きな影響を与えましたし、また育児の基本にも考えさせられる点が多かったように思います。
 そこでまず、母乳の授乳方法を解説したいと思います。もっとも、明治になって西洋医学が輸入される以前はどのような授乳方法が行われたのか、あまりあきらかではありません。しかし、授乳はきわめて自然な栄養方法なので「赤ちゃんが泣いて乳を求めたときに与える」ということが、くりかえされてきたのだと思います。後で述べる「自律授乳」の方式が、無意識にあるいは自然に行われていたのでしょう。
 明治以降、近代医学が取り入れられてからの授乳は、医学的見地から「規則授乳」が正しい授乳方法としてすすめられるようになりました。規則授乳とは、時間を決めてお乳を与える方法で、計画授乳とも言います。そしてこの規則授乳は昭和20年までのきわめて常識的な授乳方法となりました。あるいは授乳方法の建前となったのです。
 当時の医学書、あるいは育児書にみられた授乳方法の記述は大略、次のようなものでした。
ー新生児には生後24時間位で授乳を開始し、生後3ヶ月までは3時間ごとに授乳するが、間もなく夜間は1回休み1日8〜6回授乳、生後4ヶ月は4時間間隔で夜間は授乳しないで1日5回授乳するー
 という時間制、規則授乳を厳格にするほうが望ましいとされました。
 これが授乳の指導方針あるいは建前となっていたのですが、しかし後述するように、この方法を厳格に実施する母親はそんなに多くはなかったのではないかと想像されます

 ところが昭和20年代の中頃〜30年にかけて、それよりも欲しがるときに与える「自律哺乳」のほうが、より合理的ですぐれているとの発想が日本でほぼ同時にあらわれました
 わが国では東大小児科の託摩武人教授によって初めて提唱されました。当時小児科医になりたての私は強い印象をうけたことを覚えています。研究は、実際の臨床観察で「規則授乳群」と「自律哺乳群」とでは乳児の発育その他の臨床成績に差がなかったというもので、別に規則授乳をしなければならない根拠はないとの主張でした。この研究が小児科学会に発表されたときは、反対が多く、大きな物議をかもしたのです。当時の実態としては、母親は規則授乳を建前として意識しながらも、泣けば与える情に流される式の授乳が少なくなく、厳格な規則授乳は必ずしも多くなかったのでしょう。育児指導者はこれにいらだちを感じていたのですが、そこへ影響力の強い東大小児科教授の投げかけた疑問は、この「悪しき風潮」をますます助長する結果になるとして反対論が多く、なかなか受け入れられなかったのです。

 ちょうど、同じ頃、米国でも「乳児が欲しがる時に欲しがるだけ飲ませる授乳方法がより自然である」という説があらわれました。これは「自律哺乳」(self demand feeding)といわれましたが、その根拠とするところは日本の場合と正反対でした。アメリカの母親は規則授乳を忠実に守りすぎて、たとえば赤ちゃんがお乳を求めてどんなに泣いても規定の時間にならなければ哺乳させないので、このリズムに適応できない乳児が出て問題となったのです。
 アメリカでは規則に忠実すぎるための弊害から自律哺乳の提唱が必要だったのに対し、日本では規則授乳という建前と、子どもの要求に合わせても飲ませるという本音を使い分けて、規則授乳と不規則授乳の中間が行われていたと考えられます。そして託摩教授は、その実態から方法的に間違っていないとして是認され、この授乳方法を「不規則授乳」法として提唱されたわけです。

 この日米の差はまさに規則や子ども観に対する文化の違いを物語るものです。欧米の母親は一般にルール順守で子どもにきびしい習性があるのに対し、わが国ではルールは一応尊重するにしても子どもの要求があればそれにさからえない甘さが強い。よくいえば子ども中心の育児観が潜在しているのでしょう。この育児観は小児期の授乳や栄養にも反映し、食べる量や要求が多いときはそれに流され、逆に少ないときは無理強いや管理的で受動的な食べさせ方に陥りやすいのです。ことに管理的無理強いは多く、近代の子どもの食欲不振の一番大きな原因となっています。また、そのほかの意欲や好奇心などの大事な「心の発達」を阻害する結果にもつながるので、幼児期の授乳方法はその後の育児の基本姿勢に連動するように思います。

 自律哺乳方法の学問的議論が起きたのは昭和25年ごろですが、昭和30年代には質問者もしだいに多くなり、昭和40年代には一般にもこの方法が浸透してきました。そして近年では自律哺乳が広く普及して、母乳授乳とは「欲しがるときに欲しがるだけ与えればよい」というのが一般の常識になっています。ただ行きすぎも多く、泣きは必ずしも乳の要求とは限らないのに、泣けば与える式のでたらめ授乳になっていることも少なくありません

 しかしながら、母乳授乳方法で建前と本音と使いわけていた当時の母親の選択は、結果的にはきわめて賢明であったわけです。このような授乳方法の転換は、それまでの画一的な育児法から赤ちゃんの自主性を尊重するその後の育児法へ発展する具体的な動機になったように思います。

(強調は引用者による)


一小児科医の先生の回想によるものではありますが、とても興味深いものでした。


昭和20年代に、規則授乳ではなく自律授乳が日本国内でも見直されていたことには驚きました。
1960年代から病院・診療所のような分娩施設へ急激に変化したことで、規則授乳が広がったと私はずっと勘違いしていました。


自宅で出産し自宅で新生児の世話をしていた時代から、建前であっても「規則授乳」をお母さんたちは意識していたのですね。


そして1960年代は、自律授乳を提唱する小児科医のほうが少数派であり、多くの小児科医の意向で分娩施設で規則授乳が導入されたという一面があったのでしょうか。


もう少し、次回に続きます。




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