行間を読む 36 <授乳についての一小児科医の回想「母乳主義が『母乳信仰』に発展し"社会的圧力"に」>

昨日に引き続き、小児科医二木(ふたき)武氏の「母乳が足りなくても安心」から、1970年代から80年代あたりの授乳についての考え方の変化を紹介したいと思います。


「母乳信仰」といった表現は、お母さんたちひとりひとりの思いを十把一絡げにしてしまうので私自身は使いたくないのですが、原文のまま「母乳主義が『母乳信仰』に発展し"社会的圧力"に」の部分を紹介します。

 昭和50年代中頃から母乳栄養の頻度が高くなったのは大変よいことでした。
 これは当時厚生省の主導で、保健所などの行政機関が熱心に母乳の普及につとめた効果が大きかったと思います。またその頃、母乳のすぐれている点、すなわち、その組成や栄養代謝面、免疫効果などが解明されて、母乳のメリットが理論的・学問的にも明確に説明できるようになったのです。
 このような背景があって、育児雑誌、育児書、新聞、テレビなどのマスコミが盛んにとりあげて母乳の優位性をPRしました。もちろん、小児科医や病院など医療・保健関係者は、母乳礼参の言説や指導を活発に行いました。そして指導的有力な小児科医の中には、「母親なら100%母乳がでるはずだ、ミルクの必要はない」と言い、新生児室からミルクを追放するという宣言をだした病院もありました。これくらい積極的にあることも、それ以前に母乳を推進しようとして小児科医の努力がたりなかったことから考えて確かに必要なのかもしれない、というのが当時の私の考えでもありました。

ちょうど当時の開業助産婦も、分娩での開業が難しくなり乳房マッサージや母乳相談に活路を見いだしていたことはこちらの記事に書きました。
また。1970年代から80年代に出版された桶谷式の本の中にも「出ないおっぱいはない」ということが強調されていたと記憶しています。


時代はまさに「母乳の時代」に変化し始めていたのが、私がちょうど看護職になった頃だったのですね。

 これらの社会的啓蒙活動のおかげで、母乳の意義、重要性が一般のお母さんにもしっかり認識され、ぜひ母乳で育ててあげようという自覚を与えたことは大変な功績でした。
 しかし一方では、この啓蒙がしだいに社会の「空気」となり、何がなんでも母乳言う児でなければならない、ミルクを与えてはいけないという"社会的圧力"となったことも事実です。これは「母乳主義」とも「母乳信仰」とも言われ、宗教的色彩さえおびてきました。

たしかに「現時点」では私も、母乳栄養については行き過ぎだなと感じることは多々あるのですが、ただひとっ飛びにそうなったわけではなく、やはり反動から反動へと揺れているそのあいだの時期もあったように思います。
「中庸な」方法を模索していたのが、私にとっては1990年代でした。


あるいは1960年代もまたそうだったのかもしれません。
私の母子手帳には「何時間ごとにどれだけ何を飲ませなさい」(規則授乳)とも「欲しがる時に欲しがるようにあげなさい」(自律授乳)とも何も書かれていません。


「できれば母乳を」「足りなければ人工栄養を」、そして「体重は4ヶ月で生まれたときの2倍」といったおおざっぱなことだけが書かれています。


さて、1990年代半ばぐらいからでしょうか、徐々に母子同室・自律授乳、母乳推進の流れが産科施設にも広がったのは。

 そんな社会の雰囲気の中ではこれに反する言説、たとえば母乳の批判やミルクの利点をあげたりすることは、小児科医などの専門家といえども躊躇するようになりました。母乳の出が悪くて不足すればミルクを足さなければいけないことはまったくの常識なのですが、保健所でも病院外来でも指示しにくくなったのです。知人のある保健婦の話しでは、母乳不足と言われる母親に対しても、「もう少しミルクを足さないでがんばってごらんなさい。努力すれば出るはずですから、足すにしても、その上で自分で決めるように」と指示しているとのことでした。つまり、ミルク補充の指示の責任をさけて、母親の意志にゆだねる方式をとっていたわけです。もちろん、これは母乳主義が台頭してからの現象です。それまではその逆の栄養中心主義で、母乳栄養で発育が不十分であればまずミルク補充、つまり混合栄養の指示がごく普通でした。

 この社会現象が私に想起させるのは、日米戦争の起こり方や、昭和40年代の大学騒動の起き方です。前者では、誰もが戦争を避けたいと思っているのに反対できない、社会的「空気」の圧力があってずるずると起きてしまいました。後者では永年の大学の矛盾の台頭の結果かもしれませんが、東大医学部の某事件を契機にして騒ぎが露出しました。そしていつのまにか、これに反対できにくい、学生の「おかしな主張」にも反対しにくい「空気」がただよってい、全国的規模の騒動に発展したのです。この空気に同調、あるいは便乗する教師も少なからずおりましたが、、当時東大大学医学部小児科教室に関係があった私はつくづく日米戦争の起こり方と似ているなと思いました。


この二つの箇所を、もしわたしが十年ぐらい前に読んだら、戦争の経験も大学闘争の経験もないけれど、そのまま納得していたのではないかと思います。
今は、この部分はこの小児科医の「気持ち」であって、必ずしも社会全体の意向をまとめたわけでもないと読み流せます。
もう少し立場によっては違う受け取り方もあることでしょう。


前者の部分に関しては、いまだに1か月健診で「生まれたときからの体重増加が1kgなければ飲ませ方が足りなかった」と判断して、お母さんを叱るような医師や看護職もいます。
反対に急激に増える赤ちゃんもいるのですが「あげすぎ」と、これまた言われてしまうことも。


「新生児ケアと新生児黄疸」に書いたように、体重増加期に入る時期も新生児によって2週間ぐらいの幅がある可能性や生理的黄疸との関連、あるいは初産と経産婦さんの新生児のペースの違いなど、臨床のさまざまな経験や判断が言語化されていないことで、結局は日割りの体重増加率だけで判断されてしまっているのではないかと思います。
新生児のこと、とくに家庭に帰ってからの新生児の変化は医学的にはまだまだわかっていないことだらけであると思います。


「出産後すぐから一緒にいて一日に何度も吸わせないと出なくなる」とか「完全母乳」という言葉をどこからともなく耳にして母乳のために頑張ったのに、この1か月健診の結果で無惨にもその努力を打ち砕かれて落ち込んで帰っていくお母さんたちがいます。


こした反動から反動は、マスコミや乳業会社のせいだけでしょうか?
私は周産期関係者がもっと細かに事実を把握して全体像を見ようとする努力が足りないことが原因のように思えるのですが。


さて、長くなってしまいましたが最後の二つの文章です。

 以上のように、母乳推進あるいは母乳主義運動は、一方では母乳育児の価値を広く認識させましたが、それがゆきすぎて「母乳絶対主義」が"社会的圧力"となって母親を萎縮させ、育児上のいろいろな問題の原因となる副作用をもたらしました。この傾向は当時(昭和50〜60年代)ほどは強くありませんが、現在にいたるまで一貫した流れとなっています。そして現在授乳期に母乳だけで足りるのは40%ぐらいで、残り60%は混合ないし人工栄養なのですから、前述の「母乳絶対主義」の副作用問題は決して小さいものではありません。


「この傾向は当時(昭和50〜60年代)ほどは強くはありませんが」の箇所ですが、わたしはこの時代はまだ「ミルク全盛時代」だと認識していたので、あれっと思いました。


もしかしたら、1970年代からの調整乳反対キャンペーンと母乳への関心が高まった時代に、その先陣を切っていた医師や専門家にとっては1980年代(昭和50〜60年代)までは議論の熱が高まっていたという意味かもしれません。


その先陣を切っていた専門家の関心が薄れる頃に、反対に社会にそうした考えが広まる時間差があったのでしょう。

 母乳主義の副作用として圧力となっているのは、次のようなものでした。
 育児は絶対に母乳でなければならない。誰でも母乳は必ずでるはずだ。もちろんそのための努力は必要だが、もし母乳がでなければ努力不足、怠慢であり、母親失格であり、母性愛が足りない証拠だ。さらに、ミルクは毒物であり飲ますべきではない・・・。
 そんな社会の声が母親へ大きな圧力となりのしかかってきました。

まさに、WHO/UNICEFが率先してこうしたexclusiveな母乳育児推進をすすめてきた直近の歴史を知らずに、産科スタッフが伝道者となり布教してしまっているのではないでしょうか。
そういう意味では「母乳信仰」「母乳主義」という言葉は、むしろ私たち産科スタッフ側に使われる言葉かもしれません。





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