第十バス停で下車し、住宅街の蛇行した道を堤防の方へと歩きました。
緑の土手はそばに立つ民家の2階部分ぐらいの高さで、なだらかに上る道が見えてきました。
そこから見る吉野川と第十堰、どんな感じでしょう。
堤防の上は交通量の多い県道15号でした。車が途絶えるのを待って川の見える場所へと渡りました。
川幅いっぱいに広がりゆったりと流れてきた真っ青な水面が、吉野川に対して斜めに白っぽい道のような平な堰が川を横切っていました。
まるで手品のように第十堰の部分は水がなくて、しばらくするとまた吉野川が下流へと流れていました。
あちこちで堰を見てきたのですが、ちょっと不思議な感じです。
対岸に見えるのが第十新田地区で、その少し上流に旧吉野川が分かれている場所です。
地図で見つけた場所が目の前に広がっていました。
美しい吉野川です。
*「第十堰 その歴史と現在」*
少し離れた場所に何か案内板がありました。
国土交通省による「第十堰 その歴史と現在」の大きな説明でした。
空撮写真とともに、「現在の第十堰の役割」「第十堰付近の変遷」が書かれていました。
「現在の第十堰付近の変遷」
現在の第十堰は、河口からの海水の遡上をくい止め、堰上流を淡水に保つと共に、吉野川の水をせき上げ、旧吉野川に導水し、旧吉野川沿いの上水道、工業用水、農業用水を取水できるようにするほか、吉野川における徳島市・石井町の上水道の取水を可能にするなど大切な役割を担っています。
「堰上流を淡水に保つために吉野川の水をせき上げ」
これが突然現れる川を斜めに横切る白い道のような堰で、吉野川の水が手品のように消えて見える理由だったようです。
でも、その堰の下流からまた現れる水はどこから来ているのでしょう。
*旧吉野川と吉野川*
最初は、旧吉野川の放水路として吉野川を開削してそこに第十堰を造ったのだろうと想像していたのですが、「第十堰付近の変遷」を読むと少し違ったようです。
1672年頃 新川の開削
吉野川は江戸時代前期、第十付近では、南から北に流れていました。その後、一説によると別宮川は吉野川とつなげられてから急速に発達したため、現在の旧吉野川の水流は激減し、塩水化による被害が顕著になったと伝えられています。
現在の左岸側の第十新田と右岸の第十地区の間に別宮川が流れていて、その別宮川と吉野川を繋げる新川を開削したようです。
新田開発のための開削や治水のための放水路ともちがって、Wikipediaの「吉野川第十堰」によれば、「徳島城の防御を固めるため、吉野川と別宮川を接続する水道を開削する工事(新川堀抜工事)」と書かれています。
1752年 第十堰設置
吉野川下流(現在の旧吉野川)の農業用水の確保・塩水化防止のため、分岐点の吉野川右岸沿いに第十堰を造りました。
その後も別宮川が広がり、その成長に合わせ、継ぎ足ししなどの増改築が行われました。
目の前の川を横切る白い道のような堰は、近代の工事ではなく1752年にその元が造られたものだったのでした。
そしてあらかじめ川幅を広げて吉野川を開削したのではなく、川が「成長し」それに合わせて堰も継ぎ足されてきたとは、なんとすごい歴史でしょう。
明治11年 上堰設置
第十堰上流の河道が東西方向に変遷したことにより、分岐点付近の堆砂が顕著になり、現在の旧吉野川へ水が流れにくくなったことから導水をしやすくするために上堰を築き、現在のような2段階となりました。
「斜めに横切って見えた」のは、元は真っ直ぐだった堰に対して私の立っていた位置あたりから斜めにもう一つ上堰が造られたようです。
大正12年 第十樋門設置
上堰を設置したが堆砂傾向は収まらなかったため、第一期改修で根本的な対策として分派点を上流現第十樋門に付け替えたことにより、今日の吉野川の河道が完成しました。その結果、第十堰は斜め堰として残りました。
「現在も当時の姿の青石組みが残され、堰としても有効に機能していると言われている」(Wikipedia「吉野川第十堰」)
*賛成か反対かではなく、さまざまな立場の意見を忍耐強く汲み上げる時代へ*
国土交通省「日本の川」の「吉野川の水害」を見ると、吉野川可動堰計画が白紙撤回されたあと、2004年10月20日の台風23号では「戦後最大の洪水」が起きていたようです。
古い歴史的な堰を維持しながら治水・利水を図るための葛藤もまた大きいものだったことでしょう。
その時の判断は良かったのかたかだか10年20年ぐらいではなかなかわかりにくいものですし、どちらでもまた正解だったとなるのかもしれません。
その時代に何を優先するか、長い目で何が大事なのか、難しいですね。
案内板に書かれていた「徳島河川国道事務所」のホームページを見てみました。「吉野川流域講座」をはじめ、さまざまな立場の人が吉野川を一緒に考える時代になったようです。
あの八ッ場ダム建設予定地だった川原湯温泉の萩原氏を訪ねた時に、「最初は建設省の役人と住民の間には深い溝ができて話し合いなどできない状況だったが、現地事務所の役人と少しずつ関係ができ、お互いの考えを出し合えるようになった」とおっしゃられていたことを思い出しました。
上流から下流までのさまざまな葛藤に忍耐強く対応する、そういう方々が国土を築いてこられたのですね。
川のそばにあった案内板の行間にある歴史、もう少し知りたくなりました。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。
「城と水のまとめ」はこちら。