事実とは何か  82 川棚町と石木郷

相浦方面へ入る道の少し手前に、「石木ダムは必要です」というような内容が書かれた3mぐらいでしょうか、大きな表示物がありました。

 

石木ダムの名前は1990年代にダムを見て歩いたころから耳にしていましたが、どのあたりなのかよくわかっていませんでした。

帰宅してから改めて石木ダムについて検索してみると、なんとそこから直線距離でも25kmは離れているあの棚田が美しかった川棚駅のあたりでした。

 

そこに流れる川棚川の支流の石木川に多目的ダムを作るという計画のようです。

川棚川自体が延長19.4kmと、それほど長くない長崎県の二級河川ですが、ダムの建設予定地だから上流だろうと思って地図で場所を探したところ、河口からわずか2~3kmほどの所に石木川は合流していました。

 

Wikipediaの川棚川の「流域」には以下のように書かれています。

佐賀県嬉野市武雄市長崎県波佐見町の境界となっている桃ノ木峠を水源とする。なお桃ノ木峠の武雄市域は六角川嬉野市域は塩田川の流域となっている。

この川棚町東彼杵(ひがしそのぎ)郡もニュースでなんども目にしたので心配していましたが、8月中旬の秋雨前線で被害が出た地域と分水嶺で隣接していたようです。

 

それにしても冒頭の表示があった相浦町までは、なんども山を越え谷を越えという地形です。なぜあの場所に石木ダムについての表示があるのか気になりました。

 

川棚町と石木郷*

 

川棚駅を通過した時に見えた干拓地のような場所が海軍工廠跡だったことがわかりましたが、「一農漁村としての歴史を歩んでいる」と紹介されている近現代の年表を読むと、佐世保市大村市あるいは東彼杵郡との合併案を否決し続けてきた町のようです。

 

平成の大合併などで小さな町が次々と吸収される中、どんな雰囲気の町なのでしょう。

 

ダム建設予定地の一つの石木郷に、石木小学校がありました。

散歩をするようになってから小学校の記録や、自分が生活する場所の歴史を子どもたちがどのように学んでいくのだろうと気になっています。

 

川棚町立石木小学校の「沿革」を読んでみました。

1874年(明治7年)5月ー岩谷郷川原の杉谷治作宅で児童の教育を開始。初代の長は朝永基次郎(朝永三十郎の父、朝永振一郎 の祖父)。

朝永振一郎氏は東京で生まれ育ったとはいえ、 1965年(昭和40年)、ノーベル物理学賞受賞のニュースはこの小学校に関わる人たちをどんなに喜ばせたことでしょうか。

 

ところで、石木小学校は1969年(昭和44)にすでにプールが造られています。おそらく小中学校のプールの歴史では早い時期のものと思われます。

 

祖父朝永基次郎という方はどんな方だったのか。その頃の石木郷の雰囲気はどんな感じだったのでしょう。「一農漁村として」の意味にはこんなことも含まれているのかもしれませんね。

 

この石木小学校も、水害の被害があったようです。

1948年(昭和23年)9月 大水害により校舎が大破。備品書類等は流出。 

この大水害はどのような状況だったのでしょう。

 

 

航空写真で石木川のあたりを見ると、山が削られてダム工事が進んでいるようです。

ここから山の田浄水場まで導水管が通るのでしょうか。

 

先日の雨で「川棚町 石木ダムの水没予定地で町道崩壊」(NHK NEWS WEB、2021年8月14日)というニュースもありました。

 

 

村井吉敬さんなら誰と会って、どのような話を聴くだろうと、一つの地域について知るとか理解することの難しさを当時の村井さんも感じていたのかもしれないと思い返しています。

 

 

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