水のあれこれ 2  <日本の史上最大の台風被害>

前回の記事で、「私自身、水害の被害の記憶がほとんどなかった」と書きましたが、こちらの記事の「おまけ」に書いたように、幼児の頃に、住んでいた官舎の近くにあった神田川が氾濫したことがありました。


どこからどこへ避難するためだったのかはよくわからないのですが、大人の腰ほどまで溢れた水の中を自衛官の方に肩車をしてもらって逃げた記憶があります。


都内の神田川周辺は、Wikipediaに「かつては洪水で有名という不名誉な肩書きもあったが、80年代以降の川岸整備や放水路の造設によって治水がなされた」とあるように、深いコンクリート壁で囲まれたり暗渠(あんきょ)化されてきました。
それでも時々、周辺の住宅地での浸水がニュースになっています。


「高度経済成長期には生活排水の流入により水質が悪化し『死の川』と呼ばれた」とありますが、1960年代半ばのあの洪水で、私を担いでくださった自衛隊の皆さん達は相当汚い水の中を歩いたのだろうと思います。


さて、もうひとつ、私自身が経験したわけではないのですが、水害というと伊勢湾台風を思い起こします。


<私がこの世にいなかったかもしれない台風>



独立行政法人防災科学技術研究所の「防災基礎講座 災害事例編」(2008年1月)に「災害はどこでどのように起こるか」に災害の年表があります。
(直接リンクできないので、上記名で検索してみてください)


1966年の「台風4号」を見ると、「台風4号では、これら3都県において10万戸の住宅が浸水しました」とあります。
私の記憶にあるあの神田川の氾濫は、1966年のこの台風だったのかもしれません。


さて、伊勢湾台風をみると次のように書かれています。

1959年の伊勢湾台風は日本における史上最大の風水害といえる規模であって、死者5,040人、住宅流失・全半壊153,939戸などの激甚な被害をもたらしました。
以降多くの地域で「伊勢湾台風クラスの台風が来襲した場合」というのが、高潮防災計画の設定外力とされるようになりました。


防災科学技術研究所の「伊勢湾台風50周年特別企画展」に、当時の写真がたくさん掲載されています。(これも直接リンクできないので、上記名で検索してみてください)


私はまだ生まれていませんでしたが、父がこの災害救援に派遣されていたそうです。


1959年ですから被災地に投入できる機材類も限られていて、まさに人海戦術だったのではないかと思います。
また電話も貴重で通信手段も限られていたことでしょう。


出動してから父が帰宅するまでの3〜4ヶ月ぐらいはほとんど家族とも音信不通で、生きて帰ってくるかどうかもわからなくて不安だったことを母から聞いた事があります。


あの時の災害派遣で父が殉職していたら私はこの世にいなかったのだろうなと、台風の季節になるとふと思うのです。


<水害が激減した時代へ>


防災情報ナビというサイトの「日本の自然災害年表」をみると、1947年のカスリーン台風、1954年洞爺丸台風、1958年狩野川台風そして1959年の伊勢湾台風までは死者が多数発生していますが、そのあとになると水害による死亡者数は少なくなり、自然災害の年表も地震や火山噴火のほうが多くなっています。


上記の防災科学技術研究所伊勢湾台風の項の最後に、以下のように書かれています。

第二次大戦後の1940・50年代には死者数の多い台風災害が頻繁に発生しました。この大部分は深夜に上陸した台風によるものでした。深夜には状況の把握、情報の伝達、避難の実行など避難行動を妨げる多数の要因があり、人的被害を大きくします。死者数と台風上陸時勢力(中心気圧と台風圏の広さにより算定)との比で示す人命被害度は、深夜台風では昼間台風に比べ5〜10倍の大きさでした。1960年代以降、この差は次第に小さくなり、現在ではほぼなくなっています。これは経済水準の上昇に伴う住宅の質の向上、テレビなど効果的情報手段の普及、夜型社会への移行などによるものです。


経済状態が良くなった事や社会の変化とともに、「寝ずの番」で日夜防災対策に取り組んでいる方々、データーを集めてより安全な対策のための研究をしている方々、あるいは危険な場所での防災工事を請け負っている方々など、地道な仕事によって水害の記憶がほとんどなく暮らして来れたのだとつくづく思うこのごろです。





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