記録のあれこれ  28 熊野誌

新宮市をまわって圧倒されたのは、その自然や地形だけではありませんでした。

 

あちこちを散歩して、歴史資料館や郷土資料館などに立ち寄ると、どこでもその地域の歴史がまとめられた出版物が充実していて、ついつい購入してしまいます。

新宮ではどんな本と出会うのだろうと楽しみにしていたら、「熊野誌」をみつけました。

 

私が購入したのは、「第五十三号 地震特集」(2007年)、と「第六十一号 特集2011年台風12号」(2014年)の2冊でした。バックナンバーをみると歴史や文学などが網羅されいて欲しいものが何冊もありましたが、まだこれから歩きまわるには重いのであきらめたのでした。

本文中には、「熊野誌」についての説明は書かれていないのですが、検索すると「weblio辞書」の「新宮市立図書館」の中にありました。

「熊野誌」(くまのし)は、新宮市立図書館が毎年1回発行する雑誌。1958年(昭和33年)3月に熊野文化会(現・熊野地方史研究会)の機関紙として創刊し、2013年(平成25年)で第60号を迎えた。「熊野誌」は創刊号で「熊野地方についていろんなことを書き誌したものという意味である」と述べている通り、熊野地方に関係すれば何でも掲載するという方針で編集しており、専門性の高い研究論文から一般市民にも理解しやすいものまで幅広く扱う。熊野地方に関する内容であれば住民でなくても投稿を受け付けている。図書館職員が寄稿することもあり、第62号(2015年)では地域文庫の歴史について嘱託職員がまとめた記事を掲載している。

適宜特集が組まれ、第6号(1961年)は大石誠之助、第59号(2012年) は中上健次、第60号(2013年)は熊野の自然、第61号(2014年)は2011年の紀伊半島大水害が特集された。

「熊野誌」は熊野地方の書店などで一般販売されるほか、新宮市立図書館が通信販売を行なっている。

 

私が購入したのは、1946年(昭和21年)の南海地震と2011年(平成23年)の紀伊半島大水害の特集でしたが、バックナンバーをみると「第四十八号 諸記録に残る『南海地震』」「第五十二号 大水から逃げる街・新宮河原町(一)他」のように、たびたび災害の特集がありました。

 

今、先に2011年の紀伊半島大水害の号から読み始めているのですが、どの寄稿文もその時の状況が眼に浮かぶような緊迫した文なのですが、それでいて何か不思議な落ち着きを感じるのです。

私のそのつたない感想が、「編集後記」にまたみごとに表現されていました。

熊野誌第六十一号を刊行しました。皆様方のお力添えに感謝いたします。本号は、主として平成二十三年に当地方を襲った台風十二号による災害に係る 著述を掲載しました。記憶も薄くなってきましたが、台風十二号は長雨が続いた後に襲来しました。その為、広範囲で、河川の氾濫、山崩れ、山津波等を引き起こし、多数の人命を奪い、家屋、施設、ライフラインに甚大な被害を及ぼしました。現在も復旧工事が続いています。

事務局の方針として、できるだけ広範囲の地区から、形態の異なる災害について、それぞれに原稿を頂きたくお願いしました。

 

さて、届き始めた原稿を一読して驚きました。災害の大きさにも関わらず、非常に冷静で、優れた判断力のもとでの行動がうかがえました。多少年月を経ていても、恐怖、虚脱感といった感情的、感覚的な表現があってもおかしくないはずですが、逆に、役割を考え、自ら行動し、メモし、写真に撮り、今後の教訓とすべく行動されておられる事に感銘を受けました。又、日置川流域の三大水害についてのご投稿もいただきました。著者の皆様の意思の如く、今号が次世代への橋渡しになればと考えます。 

 

ほんとうにどの寄稿文も、時系列で記憶が整理されていて、読んでいてもその場で一緒になってその光景を見ているかのようです。

文章を書くのがうまいというよりも、モノローグにならないように、客観的な事実をできるだけ書きとめようとしていることが、その理由かもしれません。

大災害の理不尽さに自己憐憫に陥りそうになるところを、災害の最中にあってもなお、今後の教訓にという気持ちが伝わってくる内容でした。

 

最後に「地形・地質から見た紀伊半島大水害」というあの水害の全体像がわかるような専門的な話が、和歌山大学防災教育研究センターの方によって書かれていました。

 

熊野誌創刊以前から語り継ぐ文化があったのかもしれませんが、こうして60年以上に渡って、誰もが記録を残す文化が身近にあったことで、大水害からわずか2年ほどでこうした本を生み出すことができたのではないかと思いました。

 そして、図書館にはこういう役割があるのかと認識を新たにしました。

 

 

「洪水標 台風12号大水害   平成23年9月3日 発生 到達水位」という標識が、新宮の街の中にありました。

私の腰のあたりまで、水が来たようです。

 

 

 

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