記録のあれこれ 119  「水攻め」と1985年6月25日の集中豪雨

備中高松城跡付近が一面水に浸かっている1985年6月の写真を見て、「水攻めされた時もこんな感じだったのだろうか」とちょっと身震いしました。

 

1985年(昭和60年)、私自身は東南アジアにいたのでこの岡山の水害について記憶がないのだろうかと検索してみました。

「1985年岡山水害」でさがしても、見つかりません。

 

*「岡山県内の主な災害の写真」より*

 

岡山県の砂防の歴史」というサイトに「岡山県内の主な災害の写真」がありました。

1934年(昭和9)の室戸台風では、後楽園あたりも水没し、岡山市内の浸水の写真がありました。ちなみに母が生まれた年で、母が生まれた直後に室戸台風がきていたことが初めてつながりましたが、もうその当時の話を確認することはできません。

 

次が1972年(昭和47)の7月豪雨で、新見の地滑りや高梁川沿いの国道180号線や伯備線の線路が流出している写真がありました。すっかりセピア色の写真ですが、その直前に、家族旅行で通過した場所でした。

小学生の頃だと、災害のニュースというのはあまり記憶に残らないのでしょうか。

 

その次は1976年(昭和51)9月の台風第1号で、備前市日生笠岡の土石流や、長島愛生園の崖崩れの写真がありました。これも記憶にありません。

 

さて、その後は時代が飛んで1990年(平成2)9月の台風19号で、岡山市内や備前市内での崖崩れのカラー写真でした。

 

1985年の災害について見つけたのは、「平成30年7月豪雨時の避難開始に関する一考察〜岡山県の事例」(第18回都市水害に関するシンポジウム、2019年11月)に「岡山県の過去の風水害における人的・物的被害」という表の中に、「1985年6月豪雨 死者3人 行方不明0人 全壊流出4棟」とありました。

ちなみに1972年の水害は「死者16人 行方不明0人 全壊流出126」、1976年は「死者17人 行方不明1人 全壊流出152」、1990年は死者10人 行方不明0人 全壊流出10」に対して、あの小田川が氾濫した2018年7月豪雨では「死者61人 行方不明2人 全壊流出4870」でした。

 

備前高松城跡あたりが広範囲に水没しても被害が少なかったのは、水田地帯だったからでしょうか。

あの写真から水攻めの再現のように捉えた先人のブログはたくさんありましたが、1985年の水害についてはほとんど見つからないのはなぜだろうと、もう少し検索してみました。

 

 

*歴史寄稿「備中高松城水攻めの実体」より*

 

「歴史寄稿「備中高松城水攻めの実体」齋藤秀夫氏」(米沢日報デジタル、2016年10月3日)に、筆者が故林信男氏と知り合って聞いた話が掲載されていました。

天正(てんしょう)十年(1582)六月二日、京都本能寺で、織田信長が家臣の明智光秀の謀反にあって、あっけなく死去するという大事件が起きた。この、日本史上あまりにも有名な"本能寺の変”が起きた時、その信長の命を受けた羽柴秀吉は、備中高松城岡山県岡山市)を攻略中であった。しかも彼は、「この地に高さ7.2メートル、幅約21メートル、長さ3キロメートルにも及ぶ、大堤防を築いて・・・」と、たいていの文献ではそう記す。だけど・・・、本当に秀吉の築いた堤防は、そんなにも大規模なものであったのだろうか?。

「いえいえ、それはね、秀吉一流のはったりですよ」

そう強調するのは、長年郷土史を研究していた林信男氏である。彼の話によると、"備中高松城水攻め"は、その十分の一程度の築堤で、十分可能であり、それを証拠立てる資料も手元にはいくつかある。そう林氏は力説したのである。

 

林信男氏は、あの説明板の1985年の洪水の写真を撮った方でした。

 

備中高松城のあたりは「大きなお盆の底」のようであることを、林氏が説明したことが書かれていました。

「しかし、どんなに冠水した状態にあっても、一晩たつと、すうっと退いて行ってしまうのです。図の右はしの下の部分が、一段と低くなっていますよね?そのあたりを我々は、蛙が鼻(かわずがはな)と読んでいますが、そこはいわば、風呂桶の排水口の役目をする場所なのです。そこから水が、すうっと退いていく。でもその蛙が鼻に、古松軒の絵図にあるような堤を築いたらどうなるか?答えは明らかなはずです」

 

「(もっとも21世紀の今日では、排水ポンプの設置によって、冠水はしなくなったという。それだけに貴重な資料といってよい)」とも書かれていましたが、1985年当時も水田の水はそれほどの被害もなく退いて行ったのかもしれませんね。

 

1985年の洪水の写真を見たときには、なんだか「現代の水攻め」のようなイメージで歴史の物語が頭の中でできあがっていきそうでしたが、写真を記録された方は全く違う意図があったようです。

 

戦果が次々とつくられていくニュースを聞いている毎日なので、淡々と状況を分析しているかどうか、物語をつくっていないかということに注意が必要だなと思いながら、この記事を読みました。

 

 

 

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