ケアとは何か 10 <「ケアされるとはどんな体験か」>

「ケアとは何か2」で紹介した、「ケアの社会学ー当事者主権の福祉社会へ」(上野千鶴子氏、2011年、太田出版)の序文に以下のように書かれています。


7章「ケアされるとはどんな経験か」は、「ケアとはどんな労働か」以上に、さらにめったに論じられる事がない主題であった。なぜなら、これまでのケア論の中には、強いパターナリズムがはびこっており、ケアされる側にはこれまで恩恵の対象であっても権利の主体となってこなかったからである。当事者主権の立場からは、ケアされる側のニーズの充足とはどんな経験かが問われる。そこで直面するのは、ケアされる側の沈黙であり、ケアする側がケアされる側の声を聞いてこなかった現実である。


こちらのニュースに対しても、ケアする側の反応はたくさんあったようですが、今ケアされている人たちは何を感じ、何を求めているのかという声は伝わりにくいだろうと思います。


<ケア論のパターナリズムとは>


この序文の「これまでのケア論のなかには、強いパターナリズムがはびこっており」という部分は、具体的に7章で書かれています。


 

 二十一世紀に高齢社会に突入し、日本は世界的にも経験のない”ケア社会”になる。誰もが見知らぬ人に出会い、助け合っていなかければいけない社会である。
 介護を教える学校が全国に増えつつあるが、ケアを受けたことのない人たちが教科書をつくってもいいのだろうか。(中略)ケアする側の意見ばかり多すぎるのではないだろうか。
(小山内 1997,4)

 1997年、今から15年前に、「ケアを受けるプロ」を自称する札幌の重度障碍者、小山内美智子が書いた。(同書、p.159)


たしかに、介護に限らず看護も保育も「ケアする側の意見ばかり多すぎる」のかもしれません。


 2000年には介護保険制度がスタートし、2005年には障碍者自立支援法が成立した。とりわけ介護保険ができてから、ケアする側の、労働や事業、経営についての情報や研究はいちじるしく蓄積したが、今日になっても「ケアする側とケアされる側との相互行為にもかかわらず、ケアする側についての情報と、ケアされる側についての情報のあいだの落差は大きい。(p.159)


なぜケアする側の意見ばかりが多くなるのかについて、続けて以下のように書かれています。

 ケアされる側に比べてケアする側に情報や経験が蓄積することには理由がある。ケアする側には専門性があり、経験的な知識の体系化や情報の共有、さらには資格や権威の付与が行われるのに対して、ケアされる側にとっては自分の心身の状況の変化は初めての体験であり、ケアされることにも経験がない。同じことは医療についても言える。医師はプロだが、患者はそのつどアマチュアである。医療について情報の非対称性が言われるように、それと同様で非対称性がケアについてもある。そのため、ケアされる側は自分の心身について何が起こっているか、的確に認識し判断することがむずかしい。 (p.159〜160)

この「非対称性」は現場で働く人の多くが感じているジレンマではないかと思います。
「より良いケア」を求めて働いているはずなのに現場は混沌としていて、人手不足や過酷な労働条件、組織内の人間関係などの目先の問題と生活に追われてしまい、問題の本質にはなかなか意識が向かないのではないかと。


「ケアされる側は何を求めているのか」という本質に。


<なぜケアされる側の情報が少ないのか>


なぜケアされる側の情報が少ないか、なぜその関係がパターナリズムになるのかついて、上野千鶴子氏は以下のように書いています。

 とはいえ、ケアする側の情報と経験の蓄積は、同じ時間を共有しながらケアされる側の情報と経験の蓄積に比べふつりあいに大きい。なぜなのだろうか?その理由は第一に、ケアされる側の人々が、その経験について語ってこなかったことであり、、第二に、ケアする側の人々が、ケアされる側の人々に、ケアされるとはどういう経験か、たずねてこなかったからである。すなわちケアされる側の沈黙とケアする側のパターナリズムがその原因であるが、それに加えて、ケアされる側の経験を対象とする研究を、研究者がネグレクトしてきた怠慢があげられるだろう。「社会学的」と名のる多くの調査や、自治体や各種の団体の調査も、主として質問紙法のような量的調査に偏っており、この種の調査では、高齢者本人ではなくその家族介護者が代わって回答者となることを、暗黙のうちに容認してきた。寝たきりの高齢者の人のもとを訪ねなければならず、言語障害があればコミュニケーションがむづかしく、認知症をともなっていれば本人の意志を確かめるには長時間にわたる観察や熟練がいる。質的調査を不可欠とするこの分野の研究が、テマヒマのかかる効率の悪い調査であるため、研究者は被介護者の「介護される経験」を主語化することを怠ってきた。それだけでなく、これらの障害を抱えた被介護者を対象とする調査の技法や判定の尺度も確立していない。(p.160)


「被介護者の『介護される経験』を主語化することを怠ってきた」
すしりと心に来る言葉だと思います。


研究者に限らず、看護職として今まで接して来た患者さんたちの「看護される経験」に、どこまで耳を傾けようとしていただろうか。その経験をどこまで言葉で表現しようと心がけてきただろうか。


介護が必要になった両親の「介護される経験」に、どこまで耳を傾けようとしているだろうか。
その不満を聞くのを怖れて、目をそらし耳をふさいでいることがあるので、なおさらこの本に書かれている事にどきりとさせられたのでした。


もちろん、理想と現実の間でなんとかするしかない問題でもあるのですが、上野千鶴子氏のこの一文をいつも意識する必要があると思いました。

(前略)「介護される経験」について、わたしたちは何を知っているだろうか。そう問いを立てた時に、わたしたちは介護される経験については、ほとんど何も知っていないことについて呆然とする。(p.162)




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