ケアとは何か 11 <ケアする側の声はイデオロギーになりやすい>

介護や看護、保育といったケアに「イデオロギー」というのは唐突感がありますが、昨日の記事で紹介したイデオロギーの<定義と特徴>のように、「世界観」「先入観がある」「闘争的な概念」というあたりがなるほどと思うところがあります。


周産期ケアのこの30年ほどを振り返ると、ああと思う言葉があります。
「産む力、生まれる力」「畳の上のお産」「主体的なお産」あたりの自然なお産もイデオロギーのひとつだと思いますし、生まれた赤ちゃんを裸にしてお母さんの胸の上にのせることが「母子の当然の権利」になり、「完全母乳と完全母子同室を目指す」ことがよいこととされたのもイデオロギーだと言えるでしょう。


この方法がよいという世界観と先入観があり、それまでの方法を否定することでその方法の良さをアピールするのは「闘争的」とも言える広がり方でした。


本当にその方法を求めている妊産婦さんはどれくらいだろうと思っても、それを勧める側の熱意ほどは求められていないという実感があります。
まして、気持ちを伝える事ができない胎児や新生児はどうでしょうか。


周産期ケアだけでなく、介護の「自宅が幸せ」「家族とともにいるのが幸せ」あるいは保育の「三歳までは母親が一緒にいるべき」というように、ケアはケアする側のイデオロギーでおおきく動きやすいのかもしれません。


<代理判断によるパターナリズム


こちらの記事で紹介した、上野千鶴子氏の「私たちは介護される経験については、ほとんど何も知っていないことについて呆然とする」(「ケアの社会学」p.167)の続きで、上野千鶴子氏は「代理判断によるパターナリズム」という表現を使っています。

その理由のひとつに、誰も被介護者にその経験をたずねてこなかったという事実がある。言語障害認知症等によって、コミュニケーションがとりにくいという事実があるにせよ、意識も表現力もはっきりした被介護者はたくさんいる。にもかかわらず、相手に何が必要かを介護の与え手が代理判断するパターナリズムのおかげで、被介護者は、ニーズの当事者にはなってこなかった。

 それだけではない。被介護者自身が、「介護される経験」を、ことにそれが否定的な経験である場合には、言語化してこなかったという事情がある。介護とは相互行為である、とわたしは繰り返し書いた。そうであるからには、被介護者が不快だったり、不満足だったりすることは、介護の与え手に不満ということを意味する。家族介護や施設介護など、他に選択の余地のない介護状態に置かれた介護の受け手にとっては、介護の与え手に感謝こそすれ、文句をいうことなど許されない。


この上野千鶴子氏の意図する文脈からは離れてしまうかもしれませんが、「相手に何が必要かを介護の与え手が代理判断するパターナリズム」は、ケアの担い手が陥りやすいことに自覚的になる必要があると周産期ケアの流れをみても思います。



出産に関しては、こちらの記事に書いたように、むしろ不快だったり不満足だったことをここまで言える時代はなかったからこそ、理想像へ近づく時代の幕開けだったのかもしれません。


けれどもその不満や不快だったことを、ケアする側のある考え方やある方法を広げるための理由に使われてしまい、本当はそういうものを求めていたわけでもないものをいくつも産み出してしまったのではないかと思います。


分娩台や医療介入への否定、ミルクや哺乳瓶の否定など。
そうしたイデオロギーが、さらにケアへオカルトな世界まで引き込むことになっている。


ただただ当事者の声に耳を傾けること。
それが原点だと思います。


そこで「寄り添う」となると、それはまたイデオロギーへの入り口になるので注意が必要だと思います。
淡々と、目の前の当事者の声に耳を傾ける。
急いで結論は出さない。
これだけで、ケアの質をよくすることができると思えるのですが。





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