記憶についてのあれこれ 169 父とキャベツの千切り

キャベツの千切りというと、思い出すことがあります。

亡くなった父が、かれこれ30年ほど前に、「彼らは生のキャベツの千切りを絶対に食べないんだよな」と言った一言です。

 

「彼ら」というのは、1990年代初めの頃に東南アジアのある国から日本に出稼ぎに来ていた人たちのことです。

90年代はまだ、日本の地方都市で外国人が住むことがほとんどない時期でしたが、海外出稼ぎとしてとある工場に働きに来ていたようです。

父は公務員を定年退職後、再就職してその工場の総務で働いていたのですが、寮で生活している彼らと時々接することがあったようです。

 

当時は、父との思想対決の真っ只中でしたから、軍国少年のままの父が東南アジアの国の人たちを蔑視している、あるいは「開発途上国の人」とみなしているのだと、このキャベツの千切りの話も記憶に残ったのでした。

 

ちょうどその頃、私は東南アジアのある国を行き来して、海外出稼ぎでその国の社会的な階層から抜け出そうとしている人たちをみていましたし、海外に出る人たちはその国ではカレッジレベルを卒業した人たちであることも知っていたので、「父はその国の生活も知らないくせに、食べ物の習慣だけでばかにしているのだろう」と、勝手にまた怒りを募らせていたのでした。

 

ある時、私が1年ほど東南アジアに滞在していた時にお世話になった友人を日本につれてきました。

実家に2〜3泊した時、英語が苦手な父はまったく喋ることはなかったのですが、言葉はなくても友人と私を車に乗せて近所をドライブしてくれました。

友人への接し方を見て、私は父を誤解していたのではないかと思い始めました。

 

もしかしたら、東南アジアから工場へ来た青年たちにも親しみを感じていたのではないかと。

記憶はあやふやなのですが、「キャベツの千切りを食べない」と話していた時の父は、穏やかに笑っていたような気もします。

 

父が生まれた大正末期にはすでにキャベツの千切りはあったようですが、それほど日常的な食べ物ではなかったでしょうし、まだまだ生野菜を食べることは勇気が必要だったのではないかと思います。

とりわけ父は、軍隊で食品の衛生にはものすごく厳しく言われていたようですから。

むしろ、キャベツの千切りを残す青年たちと自分が重なったのではないか。

そして自分の国を離れて、家族のために出稼ぎに行かざるを得ない状況に対しても。

 

あるいは、娘の世代が他の国に関心を持ったり、なんの障害もなく国境を越えて交流できるようになった時代の変化に、昔やり残した思いのようなものがあったのかもしれません。

 

もう父に確認することはできないのですが、なんだかほんと最近、こうした若気の至りで怒ったりしていたことが思い出されては、冷や汗が出るのです。

 

 

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