記録のあれこれ 151 「人間愛を貫いた武人」の記録

新町川の遊歩道を通って徳島駅へ戻る途中に、川のそばに大きな黒い石碑がありました。

 

人間愛を貫いた武人 松江豊寿(トヨヒサ)

 

 この地には、徳島と極東のドイツ人俘虜収容所長だった松江豊寿陸軍大佐(一八七二〜一九五五)の住居がありました。

 松江大佐は、戊辰戦争に敗れた会津藩士の家に生まれ、幼いころより敗者の悲哀を心に刻みながら育ちました。陸軍士官学校を卒業後、軍人として誠実に勤務し、第一次世界大戦当時は中国チンタオで日本軍に敗れたドイツ俘虜の収容所長を務めました。

「俘虜は犯罪者ではない。彼らも祖国のために立派に戦ったのだから、武士の情けを持って遇したい」との信念で部下や地元住民に働きかけ、俘虜の人間としての権利を守るために心を砕きました。その結果、約千名を収容した極東収容所では様々な所内活動が活発に行われ、小さな「ドイツ村」に捕囚文化が花開きました。ベートーベンの「第九交響曲日本初演はその象徴的できごとでした。松江の温情と助言に応じてドイツ人たちは彼らの持つ進んだ技術や文化を地元住民に伝えました。西洋式農業、酪農、畜産、音楽、建築、製パン、スポーツなど各分野で日本人の弟子が育ちました。ドイツ人も日本から多くのことを学んでいます。極東の人々は彼らを「ドイツさん」と親しみを込めて呼び、敵味方を超えた友情が芽生えました。

 俘虜収容所という得意な環境の中で、言語、習慣、文化の異なる二つの国民が共生し、心を通わせ、庶民レベルの異文化交流の輪を広げた史実は、世界でも稀な特筆すべきできごとと高く評価されています。そしてバンドーの交流は今なお日独友好のルーツとして徳島の地に受け継がれています。

 松江豊寿は、退役後郷里会津若松市の市長に推され、後東京で八十二歳の生涯を閉じました。

   碑文 林 啓介=作家

 

 

子どもの頃に耳にしたことがあるドイツ人俘虜収容所の話は坂東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)で、鳴門にあったことが初めてつながりました。

 

「幼いころより敗者の悲哀を心に刻みながら育った」

「俘虜は犯罪者ではない」

戦後、福山の町にばらを植えた時のように、「市民の心はなかなか混迷を抜け出せなかった」という戦争の後の残酷な時代の葛藤は、こうした真髄のようなものを人に悟らせるのかもしれませんね。

 

19世紀から20世紀にかけて人道という普遍的な考え方ができたのも、昔の人がこうした戦争の葛藤から遺してくれたものですね。

 

「俘虜の人間としての権利」

Wikipedia「坂東俘虜収容所」の「施設と捕虜の活動」を読むと、「人間としての権利」とはまさに生活をすることそのものですね。

捕虜収容所は、兵士の捕虜を収容する8棟の兵舎(バラッケ)を中心に、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生成工場を有した。パンを焼くための竈も作られた。農園では野菜が栽培された。

ドイツ軍およびオースオリア=ハンガリー将兵の捕虜の多くは志願兵となった民間人で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。彼らは自らの技術を生かし製作した"作品"を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ドイツ人及びオーストリアハンガリー人の優れた手工業や芸術活動を披露した。また、建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている(現在では保存のため通行は不可)。

 

 

誤った方向の「愛国心」や「国防」で煽られながら、生活が成り立たない国でも守ろうとするのが国民だと感じるこの頃ですが、こういう鵺(ぬえ)のような雰囲気にも抗ってきた方々がいつの時代にもいるのですね。

 

最近は、散歩の途中でこうした石碑の前に立ちすくむことが増えました。

 

 

 

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