泳ぐことや競泳の記事がいつのまにかたくさんになったので、新たに「泳ぐ」というタグを作りました。
右の「カテゴリー」の「泳ぐ」から過去記事を読むことができるようにしました。
「泳ぐ」とは一見無関係のタイトルが出てきて、中にほんの一言だけ泳ぐことについて書いた部分がある場合もあります。
でも、それが私にとっては泳ぎ続けてきたことで得たことを書いています。
「なぜスポーツをするのか?」という哲学的問いかけの答えにはほど遠いのですが、泳ぎ続けたり競泳を観戦し続けてきたことで考える視点が広がったように思います。
まだ、人生の集大成ほどのことはとても言えないのですが、「なぜ泳ぎ続けているのか」という問いへの答えは、「あらがわない」ことを求め続けているのかなと、最近漠然と考えています。
「あらがわない」
それはあきらめて無抵抗になるという意味ではなくて、むしろ積極的に「抵抗」に近づき、その「抵抗」をうまく取込んでいくという感じです。
<ただ浮いているだけでもなく、ただがむしゃらに水をかくわけでもない>
年々、水泳人口が増えているのか、なかなか思いっきり泳げるほど空いていない時間が増えました。
コースに人が多くなると、一旦、自由遊泳コースへと避難しています。
最初の頃はそんな時間がもったいなく感じたのですが、最近では、ゆっくり水中で手足を動かして、水の抵抗をいかに少なくできるかを楽しんでします。
ちょっとした角度や指の開き方だけでも、ふと水の抵抗が軽くなる瞬間がわかっておもしろいと思います。
水泳は、流体を扱うスポーツなので、人間が思ったようにならない面倒くささがある一方で、抵抗が敵になったり味方になったりするスポーツです。
水の中の「技術の自由度」で紹介した野口智博氏のブログにそう書かれていますが、これを読んだ時に、あのプールの端っこでひっそりと水の抵抗を「研究」している時の感覚を思い出しました。
競泳というスポーツが、粘性の高い流体を媒介して行うことと、「ルール上規制されている動き」があるためです。
これで思い出すのが、昨年初代スポーツ庁長官になられた鈴木大地氏のバサロ泳法や、平泳ぎのドルフィンキックですが、昨年のカザン世界水泳でも水の抵抗を少なくして推進力を高めるために「なるほどこの手があったか」とちょっと驚かされる場面がありました。
アメリカのライアンロクテ選手が、200m自由形や個人メドレーでみせたターンです。
クロールのターンですから、壁を蹴ってやや体を斜めにしながら浮き上がると、普通はすぐにうつ伏せになった状態で泳ぐのですが、ロクテ選手はしばらく仰向けに近い斜めの状態で進んでいました。
そのまま背泳をするのかと思うほど、バサロキックに近い感じです。
50mをこんなに速く進めるロクテ選手ならではなのかもしれませんが、今までそういうターンを見たことがなかったので不意をつかれた感じでした。
やはり、今後は個人メドレーでは禁止されるようですが。
ある一つの道じゃなくても、工夫と鍛錬によって「別の道でも同じタイムが出せるようになる」ということなんですね。
水にあらがわないための工夫のためにはまだまだ発想の余地もあって、何度も同じ動きを繰り返す中で、空中を飛んでいるような泳ぎを再現していくということでしょうか。
「抵抗」があるからこそ、「あらがわない」工夫の可能性が広がっている。
そんな感じですね、きっと。