つじつまのあれこれ 6 <我田引水>

前回の記事で、「産み育てと助産の歴史」医学書院、2016年)の「第2章 自宅で産んでいた人〜農山漁村の体験者の語りから」では、産婆・助産婦が医療介入のないお産をする人として描かれていたり、反対にお産に不自然さをもたらした人としても描かれています。


「自然なお産運動」でしばしば目にする、このつじつまの合わなさはどうしてなのだろうと思います。



この「第2章」の小見出しを見ると、「3 産みの場」「4 医療者が介入しない出産」「5 出産姿勢」「ニーズと身体性」とあります。


もしかしたら、「自分はもっと妊娠・出産をコントロールして自分の力で産むことができたはずなのに、医療者のせいでその力を発揮することができず、思うようなお産ができなかった」
そのあたりが、「自然なお産運動」の強い動機なのかもしれません。


そして病院批判のやり玉として挙げられる医療者の都合で行われる仰向けのお産分娩台への批判になり、アクティブバースとかフリースタイル分娩へと広がって行きました。


女性というのは分娩を自力でコントロールできて、冷静に出産の姿勢をとって自ら赤ちゃんを取り上げることが可能である、という自分の体への万能感ともいえる強いファンタジー(「身体性」)がそこにはあるようです。




<インタビューの中に見える気持ちの矛盾>



「6 ニーズと身体性」では、昭和25年から4人を自宅で出産した方のインタビューが書かれています。

奄美大島の南端に住んでいたS11(注:聞き取り調査対象の番号)は、戦後も村には電気、水道はなかったという。一人目を近くに住む助産婦に介助を依頼したが、二人目を妊娠したときにはその助産婦が引っ越しをしていなくなっていた。介助者を失い、途方に暮れるところだが、S11は姑と二人で出産し、その後、自らが沖縄に引っ越して出産したときは、また助産婦に頼んでいる。

産む不安は全くなかったんですよ。きついだろうとか苦しいだろうとか全然なかったんですよね。助産婦さんはどっか移動されて、いないもんですから、心配事も何もないですよ。産めばいいやってまったく、予定日もわからないですよ、まったく無知なんです。


「途方に暮れた」と「産む不安は全くなかった」「心配事も何もないですよ。産めばいいやって」は、相矛盾している気持ちですが、普通に読めばやぶれかぶれといった気持ちではないかと思います。


そしてもう一人のインタビューが書かれています。

S12は、医療者のいない出産について以下のように語っている。

不安はなかったですよね。みんなそうだったから。それが「自然」だったからじゃないですか。


インタビューされたご本人は、「自然」とカッコ付きで語ったのではないのだろうなと思います。



<身体イメージとか世界感とかへの我田引水>


S11の方が、「予定日もわからないですよ、まったく無知なんです」と語ったひと言にどんな思いがあるのかはよくわからないのですが、私には「たまたま無事に済んだけれど、周囲には妊娠出産のことを知らなくて大変だった人もいる」という気持ちがこめられているように受け止めました。


現在のように正確な妊娠週数がわからない時代はそれほど昔のことではなく、20年前でも産まれてみて「早産だったのではないか」「過熟児だったのではないか」ということがしばしばありました。


「自然な陣痛」が全ての赤ちゃんに良いわけではないのです。



ところが、この本では以下のように解釈されています。

医学的に「出産予定日」を規定される妊婦と、そうした概念があることも知らずに「いつかそのうち生まれる」と思っている妊婦では、身体イメージが異なるのは明らかである。前者は設定された時間概念に身体を合わせ、目標の日に向かって生きることになる。「無知」という言葉は、現代に生きる彼女が過去の自身を振り返ったときに語られたものだが、その当時は無知であることを教えてくれる人は誰も存在しなかった。彼女は医療者がいないという出産環境ですら欠如とは捉えていなかったのである。


いえ、S11さんは「介助者を失い途方に暮れる」「沖縄に引っ越したときは、また助産婦に介助を頼んだ」と話しているのですが。


そしてS12さんの「みんなそうだった」から、「世界観」という解釈が行われています。

ここで語られる「みんなそうだった」という言葉にも、共同体という狭い社会の中で、選択肢を与えられていない当時の女性の世界観が表されており、他者と同じであることに安心感を見出す心性がにじみ出ている。当時の女性たちは出産のみならず、結婚をはじめとするライフコーズ全般において選択肢は極端に限定されていた。共同体のなかでひとつの世界観が共有されていたために、そのあり方に疑問を持つことは少なく、当事者のニーズも育たなかったといえる。


やっぱり「無知だった」とか「みんなもそうだった」と自分を納得させるしかない時代には戻りたくないですよね。
一人で危険をおかして産まなければならない状況は、決して「身体性」とか「世界観」なんてファンタジーにしてしまってはいけないと思います。



この章では、上野千鶴子氏の「ナショナリズムジェンダー」(1998年、青土社)からインタビュー方法について以下のように引用されています。

過去を語る事例のインタビュー調査については、忘却や記憶違い、非一貫性、記憶の選択制などがあることが指摘されている。同一人物であっても、語られ選ばれる言葉は時代を語るなかで変化し、さらにその言葉は現在からみた過去の意味づけである(上野 1998:166)ことも確かである。


インタビューを使うことについての注意を書いてまで、ここまで我田引水ができるのはどうしてなのだろう、筆者の意図はどこにあるのでしょうか。




「つじつまのあれこれ」まとめはこちら