水のあれこれ 207 福岡堰と遊歩道

福岡堰を訪ねる計画はだいぶ前から散歩の計画ノートにあって、おおよそのルートまで書き込まれていました。

躊躇していたのは、航空写真を見ても最寄りのバス停からかなり人気のない水田地帯を歩く可能性でした。

 

江戸時代だったらいや現代でも、女性が一人では歩くことは想定していないだろうなという躊躇です。

実際に訪ねてみると怖れているようなことはまず起こらないのですが、やはり追い剥ぎや暴漢を妄想してしまいます。ヒトの世界は物騒ですからね。

あるいは誰かの所有地の農道であれば、勝手に歩くこともできません。

 

ところがそこに、伊奈忠次を祀っている伊奈神社がある。

是非、この地域を歩きたいという思いが強くなりました。

 

*水門バス停から福岡堰へ*

 

いつもの出勤時刻よりさらに早朝に家を出て、つくばエクスプレスみどりの駅で下車しました。

 

地図では福岡堰から2kmほど下流に用水路が始まっているような場所があり、「水門バス停」があります。

ちなみに「すいもん」と読むのではなく、「みずもん」でした。

 

そこで下車して100mほど歩くと、地図に描かれている通り、小貝川から導水した水を水田に二手に分ける水路がありました。

道路を渡ると小貝川の堤防です。堤防沿いは人気がなさそうなので県道沿いを歩くつもりでしたが、白線しかない歩道で交通量も多く、ここで断念するしかないのかと諦めかけた時に、堤防沿いに遊歩道らしき道が整備されていることに気づきました。

 

「福岡堰土地改良区 谷和原村観光協会」による周辺の案内図がありました。

桜並木が堤防沿いにあり、トイレなども整備されているようです。

先ほどの分水路は、「台通用水路」「川通用水路」であることが書かれていました。

 

その横に、「この水路は今から約370年前に生まれました」という説明がありました。

福岡堰(ぜき)の由来

 この水路は水田灌漑のための用水路で、谷和原村伊奈町・藤代町にまたがる広大な農地を潤しています。

用水は四月から九月まで福岡堰によって小貝川から取水されています。

 江戸時代の初めまでは、小貝川と鬼怒川が合流してこの地域に流れ込んでいたものを、時の関東郡代伊奈忠治が分流させ、鬼怒川の水がこの地域に流れ込まないようにし、常陸谷原(やわら)三万石の新田開発を可能にしました。開墾する新田に対する用水源として寛永二年(一六二五年)から、当時小貝川の途中にあった山田沼に堰を設ける工事を、さらに翌年には水路網も掘削し始め、寛永七年頃完成しました。これが現在の福岡堰と用水路の原型です。その約百年後、八代将軍徳川吉宗は幕府の財政を立て直すため、新たな新田開発を奨励しました。その際、山田村の開墾が計画され、堰をやや下流の福岡地区に移す工事が行われました。こうして享保七年(一七二二年)、福岡堰が誕生したのです。それ以来、水田を潤し人々の暮らしを支え続けてきた福岡堰とその水路は貴重な施設・財産として大切に守り育てられてきたのです。

そして最後に「用水は江戸時代から続く地域の宝物です」「ゴミを捨てないでください」「水路の流れは危険なので決して入らないでください」とありました。

 

この案内板を読んで、一気にこの地域への親近感と信頼感が湧いてきたのでした。

福岡堰まで1.5km、伊奈神社までは1.7kmだそうです。

 

桜はすっかり葉も落ちていますが、土手は緑の草が生え、白鳥とアオサギがいました。冬の青空に映えています。

用水路は石を針金で固定したものが続いています。

時々、散歩をされている地元の方とすれ違うくらいで、誰もいない静かで美しく整備された小貝川の遊歩道を独り占めです。

途中、国土交通省が管理しているという立て看板がありました。

 

*福岡堰へ*

 

次第に福岡堰が見え始めました。

近づくと堰自体の高さもさほどではなく、浅い池のような景色でした。

 

つくばみらい市による説明がありました。

 福岡堰は谷和原村の最北端にあり元和年間関東郡代伊奈半十郎忠治の支配する鬼怒・小貝川の分流域にあたる谷原領三萬石が干拓され、その用水源として寛永二年(一六二五)小貝川を萱洗堰で堰止め、一・六キロメートルを導水し、台通、川通の両元圦(もといり)から地区内へ灌漑用水したのが始まりで、山田沼堰ともいわれ、享保七年(一七二二)福岡地内に改設して福岡堰となった。小貝川締切工事は毎年春の彼岸に竣工し、用水の済んだ秋の彼岸に切流した。

 のち、明治十九年木造堰枠に改築され十年ごとに伏替していた。大正十二年に工費十五万円で鉄筋コンクリート造りに改築しその恩恵を受けていたが、小貝川の流量増大と本体の老朽化のため、昭和四十六年工費十億円余りで竣工したのが現在の福岡堰である。

 

「鉄筋コンクリート造りに改築しその恩恵を受けていた」の一文に、明治終わり頃からのコンクリートの普及を思い出したのですが、当時の人はどんな思いで新たな工法を見ていたことでしょう。

 

しばらく堰の上流の広々とした水面と、ずっと平地が広がる地域を眺めました。

「鬼怒川と小貝川の分流工事」

想像がつかないのですが、Wikipedia「鬼怒川」の「歴史」にある「江戸時代以前の利根川、荒川、渡良瀬川、鬼怒川水系」の図を見ると、「洪水」の意味が現代とは違うのかもしれませんね。

 

訪ねてみて良かったと思う風景と歴史でした。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら