事実とは何か 37 <違う意味の「危機感」ではないのか?>

世界水泳ブタペスト大会の全競技が終了して数時間もしないうちに、「スポーツナビ」に「金メダルゼロに平井監督『危機感ある』萩野らの伸び悩み、海外勢の勢い実感」というインタビュー記事がありました。


その中で、海外選手との違いについて、「ああ、やっぱり」と思える箇所が何カ所かありました。


「五輪翌年の大会としては記録がでていたと思うが、どう見ていたか?」という質問に、以下のように答えています。

 そんなに変わりはないと思います。米国の(ケーレブ・)ドレセル選手とか、リリー・キング選手とかの勢いはすごく感じました。あとはカリシュ選手が萩野、瀬戸と同じ年なのですが、米国はNCAA全米大学体育協会)のルールで在学中は練習時間が決まっていて、(卒業する)23歳になる年ですごく記録があがります。ただ、それだけ学業を重視していたり、人間として成長することをやっているんだと思います。


アメリカはすごいな、と本当に思います。
日本ではこういう発想にはなかなかならないのはなぜでしょうか。
こちらの記事で紹介した、「部活動はゆるくてもいい」という方向性につながることだと思います。
部活動だけでなく、「わが子を競泳選手にして活躍させたい」と奔走している家族にも言えることではないかと思います。


背泳ぎの入江陵介選手が、昨年「僕は賞味期限が切れた人間かもしれない」と言ったのを見て、そう言わせてしまう社会が問題なのだと思いました。
若い選手たちに短期的な目標で結果を出すことを期待し、社会が感動する結果でなければ切り捨てる。
「若く、まだ自分が何者かわからない」世代をつぶすような競技大会であってはいけないと思います。


 日本(の萩野や瀬戸)が新社会人になってがつんと結果を残せなかったのは、競技に特化しすぎているところもあるのかなという感じもしています。若い選手も昨年から代表にはいってきてくれていますが、果たして彼女たちは3年後の東京五輪がピークなのか、次の2024年がピークなのかを考えていきたい橋本聖子さんがよく人間力とおっしゃいますが、そういったことを感じました。

 もちろんトレーニング(の内容)も僕は考えなければいけないのですが、23歳になってどーんとくるカリシュ選手のような存在を見ると、何か先に"果実"を収穫することだけに走ってしまうのも良くないのかなと感じました。萩野ともさっき話しましたが、彼は「実力不足」と話しています。僕は(足りないのは)「総合力」だと思います。水泳で練習をやるのは当たり前ですが、それ以外の部分での成長も期待するし、何か海外の選手が頼もしく見える部分がある。記録は同じだが大人と子どもが泳いでいるような印象を僕は感じました

さすが、平井監督の視点だと、なんだか読んでいて泣きそうになりました。
平井監督は「金メダルゼロ」に危機感を持ったのではないのだと、記事の中身を読んで思いました。



おそらく海外選手との違いは、数年後、十年後の自分の目標は何か、自分はどこまで成長しているのか、何が成長なのか、そういうことを考えることが身についているかどうかの違いなのではないかと、海外選手のインタビューから受ける印象があながち間違いではなかったようです。



そして、観客側も記録やメダルに一喜一憂せず、今その選手が目標のどのあたりにいて、どのような試行錯誤をしているのか、という客観的な視点を持って競泳を楽しめたら、選手ひとりひとりにとっても心強い応援になることでしょう。


あ、観客って客観の反対ですね。
また競泳観戦を楽しみにしてます。




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