「あの日から何年」という日に流される災害の映像は、ついついチャンネルを替えてしまいます。
「語り継ぐ」ことが大事だとわかっていても、涙ながらに語る人の姿の映像はそのお気持ちを想像するだけでなく、なんだかわからないけれど申し訳なさのような怒涛の感情が湧き上がってきて、気持ちの整理の方に時間がかかってしまいます。
最近は誰もが簡単に動画を撮りそれを世界中に見せることができて、災害の状況を把握し救助するために、少し前までは考えつくこともなかった得難い情報源だと最近の変化に驚いています。
ただ、それをリアルタイムに観てしまうと、画面の向こう側の決死の状況を観客的に観ているような感覚が怖く感じます。
あの津波に車が飲み込まれていく映像をみてしまった時に、気持ちが揺り戻されそうになるのです。
そしてそれをニュースで何度も何度も放送されると、どこか自分の心や感覚が麻痺していくのではないかという漠然とした不安があります。
それでもその場で撮った映像というのは、のちにとても貴重な資料になることでしょう。
災害が発生した時には、状況を把握するためにそうした動画を含めてニュースをつけぱなしにすることが多いのですが、「あれから何年」という番組はほとんど観ることがなくなりました。
おそらくそうした視覚的な刺激が、私には強すぎて辛いのかもしれないと思っています。
私にはむしろ、文章や写真の方が災害について知り考えるにはちょうど良い資料になります。
ここ数年、災害の歴史を意識することが多くなりましたが、案外、正確な災害の記録を残せるようになったのはここ1世紀ほどなのかもしれないと思っています。
*記憶を残す方法*
あちこちの郷土資料館でも災害の歴史の展示に関心を持ってみているのですが、江戸時代あたりになると、文字と図あるいは絵で記録が残されているものもありますが、全体の災害からみればごくごく一部でしかありません。何の記録も残せなかった災害の方が多いことでしょう。
明治時代に入ると、写真で残っているものが増えてきます。
そして千葉県立関宿博物館に展示してあった「明治四十三年の洪水絵はがき」「大正六年の洪水絵はがき」のように、絵はがきにしていた時代があったことを初めて知り驚いたのですが、これは記録を残しかつ広く社会に状況を伝えるという意味があったのかもしれません。
佐倉にある国立歴史民族博物館で、「特別展 諸国洪水川々満水 カスリーン台風の教訓」という本を購入しました。
2007年に葛飾区郷土と天文の博物館が開いた特別展を本にまとめたもののようです。
本展示では、いずれも利根川の決壊によって東京低地にもたらされた1742(寛保2)年の寛保の水害とカスリーン台風を取り上げ、被害の実態を検証しました。また、現在にまで継承されている河川工法の変遷を取り上げ、川を守る人間と水の攻防を追跡しました。
その中で、江戸時代の洪水の図が何枚か掲載されています。
たとえば「権現堂村の堤が150間(270m)切れ、家数60軒のうち4軒を残してすべて流失したようすが生々しく描かれている」(1802年)洪水の図は、川と道が描かれている簡単な地図に文字で何かが記録されている程度のものです。
明治29年水害になると、水に流されて助けを求めている人たちや避難する人たちの写実的な絵が残されていて、明治40年に出された「風俗画報 増刊 各地水害絵図」ではさらに精度が増した絵で記録が残っていました。
明治30年代後半から40年代(20世紀初頭)になると、利根川の堤防工事の風景や洪水の写真が残っているようです。
1923(大正12)年の関東大震災になると、堤防が破壊された写真が何枚も残されているようです。さらに1947(昭和22)年のカスリーン台風になると、水没した地域や線路上に避難している人たちなどの写真がたくさん掲載されています。まだモノクロ写真で、「GHQ東京撮影」というものもありました。
こうした時代の変化を見ると、災害の記憶を絵に描く方法から、写真でリアルタイムにそのまま記録する時代へと変化した一世紀といえるのでしょうか。
そして新聞の写真や洪水絵はがきで伝える時代から、動画で瞬時に世界中へ伝える手段を多くの人が持った時代へと変化したのですが、膨大な災害の記録の何が残っていくのかちょっと想像がつかないですね。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。