散歩をする 47 <ケルネル田圃から春の小川へ>

武蔵野台地ハケの上であり、「昭和も後半の高度成長期ごろまでは、米が2割から3割、それも陸稲米で冷えるとぼろぼろになる麦飯やかて飯を常食とし」というWikipediaの説明文を読み、なるほど、私も幼児期から合わせればかれこれ50年近くを武蔵野台地で生活してきて、畑は身近だけれど、水田を見ることがほとんどなかったのは地形が理由だったのかと遅まきながら理解しました。


ただし、ハケの上でも湧水があれば水田はあったようです。
「東京湧水 せせらぎ散歩」にも、「湧水とともにあった生活」の中で以下のように書かれています。

弥生時代の田んぼは大きな川の周辺ではなく、丘陵地の麓の遊水池や湿地帯に多かった。湧水などの小さな流れのほうが制御しやすく、利用しやすかったからである。したがって、その涌き頭を利用することは、水利権をおさえることであり、利水者を従わせることにつながっていたのである。

神社仏閣、有力氏族や地主の土地なども多くは湧水のあるところ、涌き頭に立地することが多く、それが信仰を集める要因になったり、主従の関係を形成する背景のひとつとなっていた。

現在の都立公園や庭園などをみても、豊かな水がある場所が多いのですが、昔の有力者の土地であった歴史とつながります。
ところが、水田となると都内ではあまりピンとこないものです。


すぐに思いつくのが、駒場野公園にあるケルネル田圃です。
井の頭線駒場東大前駅の近くに田んぼが見える、不思議な光景が今も続いています。


駒場野公園のほうが高い位置にあって、田んぼは北側の日当りの悪いところにあります。
90年代頃に、初めてその田んぼの存在に気づいた時には、現在のようにすぐにネットで調べられる時代ではなかったので、「日当りの悪いところで未だに米を作っている人がいるのか」ぐらいに思っていました。
その後、図書館でケルネル田圃の歴史を知りました。


その後は通りかかってもこの田んぼについて深く考えることがなかったのですが、ハケという用語を最近知って、するするとこの地形と水田の関係が理解できたのでした。


<春の小川>


もうひとつ、「こんな都会のど真ん中にかつて水田があったのか」と想像できない場所が、「春の小川」付近です。
この名前と場所は以前から何かで知っていたのですが、ちょうど現在の小田急線沿の代々木公園の周囲を歩くと表示もありますし、道の形からもその痕跡がわかります。


Wikipedia「春の小川」の「歌詞の由来」を読むと、「宇田川の支流のひとつでもある河骨川と呼ばれる小川が田を潤していた」と書かれています。


川があっただけでなく、水田がそこにあり米作りが行われていた。


これは目で確認しないわけにはいかない気持ちになりますね。
ということで、ケルネル田圃から春の小川へと水田地帯の痕跡を訪ねる散歩の計画ができました。
それはちょうど、渋谷から新宿までハケ下を歩くという散歩です。



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