8月上旬の充実した庄内平野の散歩のあとは、仕事の忙しさと連日の極暑で生きているだけで充分という毎日でした。
そんな8月でしたが、下旬に散歩に出かけました。
地図をびよ〜んと拡大してどこを歩こうかと探しました。
心身ともに疲れてくると、湧水で心洗われる崖線を訪ねたくなります。
だいぶ歩いたかなと思っても、地図を見るとまた訪ねていない場所が見つかります。
*新小金井駅からハケ下の野川へ*
地図では駅の西側に小さな薄緑色の三角形の場所が描かれていますが、実際に訪ねてみると、そこは小さな公園があり木のベンチがあって一枚の絵のようでした。
商店街と住宅地を抜けると都道134号線で、「連雀通り」と標識がありました。三鷹のあたりで見かける連雀通りは国分寺崖線を通るのだと、初めてつながりました。ちなみに正式名称は東京都道134号恋ヶ窪新田三鷹線で、おそらく「恋ヶ窪新田」は玉川上水によって開拓されたことでしょうからこの道の歴史も興味深いものです。
しばらく西へ向かって平坦なまっすぐな道を歩くと、地図では野川沿いの薄緑色の場所に何本か階段が描かれています。崖線を降りていくことが想像できて心躍る場所ですが、まだここを歩いていなかったのでした。
35度越えの散歩の序盤からの階段は下りとはいえきつそうなので、車道のあるみはらし坂を選びました。
連雀通りを曲がるとすぐそこに森が見えて、国分寺崖線です。
そこから急に下り坂になり、右手には鬱蒼と竹藪がある都立武蔵野公園が坂道に広がっていました。
坂の途中には、縄文時代にこのあたりに竪穴住居があったという栗山遺跡の紹介がありました。
*「小金井水田跡石碑」*
膝にぐいと力を入れながら坂を降り切ると、野川の河岸の公園が広がっています。
遊水地としての調整池があり、そばに1972年(昭和47)に建てられた大きな石碑がありました。
小金井水田跡石碑
人の生活と水はいつどこでも深い関係があつたと証明されているが、この近くでも崖下から各所に湧水が見られ七・八世紀の頃には人が住んでおり上流から野川沿ひには帯状に水田が開拓されたことは推定される。
小金井市の史料によると
寛永十二年(西暦一六三五年) 十三ヘクタール
享保九年(西暦一七二八年) 二十ヘクタール
明治十三年(西暦一八八〇年) 三十六ヘクタール
大正十三年(西暦一九二四年) 二十七ヘクタール
昭和四十三年(西暦一九六八年)七ヘクタール
このやうな変遷の末都市化により住宅地と変わり一部は武蔵野自然公園となつた。
永年吾々の祖先が困難とたたかいながら開拓し稲作作りに努力してきたが昭和四十五年を最後に五ヘクタールの水田もその姿を消すこととなつた。この機会に水田耕作者は祖先への感謝と追憶のため記しておくものである。
1970年(昭和45)に水田が姿を消した頃の時代というのは、人口が急増したにもかかわらず米が余る時代になり、また住宅地へと変わっていった時代だと思い返しています。
ただし、この国分寺崖線の上と下にはごく最近まで違う歴史もあったことを武蔵野台地の歴史から知りました。
水田を手放した方々は私の祖父母や両親の世代でしょうか。
半世紀後に公園の中に建つ石碑に何を思うことでしょうか。
石碑の字がかすれて読めなくなることがないように守り続けられますように、と思いながら後にしました。
「米のあれこれ」まとめはこちら。