イメージのあれこれ 11 <公共とは>

あちこちを散歩するようになって、途切れることなく整備されている堤防だけでなく、ありとあらゆるところに災害や事故を未然に防ぐための施設があることに気づくようになりました。


また、網の目のように張り巡らせられている水道下水道もまた、江戸時代、いえもっと前からの失敗学が知識や技術となり、引き継がれて来たからだろうと思います。


散歩をしていると、道ひとつをとっても、公共性のある事業がくまなく人知れず整備されていることに、ほんとうにありがたいと思います。
あるいは、途中でトイレに行きたくなった時にも、公園を始め公共の施設があるので、清潔でトイレットペーパーも完備されたトイレを利用することができます。


まだまだ車優先で歩く人のためではなさそうな道も多いのですが、それでも1日に何人がここを歩くのだろうというような場所にも歩道やガードレールが整備されていて、車や自転車が疾走する中でも散歩をすることができるように配慮されているところもたくさんあります。


すごいなと思いながら歩いているのですが、そういう公共性のある事業におもしろい境界線があることに気づきました。


自治体による境界線が明瞭>


「ここからは○○市」といった表示が道路にありますが、そこから風景が激変することはほとんどないので、道路だとあまりその境界線はわからないかもしれません。


ところが川沿いを散歩していると、その境界線がはっきりとわかります。
遊歩道や柵、あるいは川の中の構造物もがらりと変わることがしばしばあります。


「あ、おしゃれで、歩きやすいな。ベンチもあちこちにあって、歩く人のために整備されている遊歩道だ」と歩いていると、突然、でこぼこの歩道になり、狭くなったり行き止まりになったりするのです。
川も、同じ水が流れているとは思えないほど、なんだかいきなりドブ川の様相を呈することがあります。
そしてしばらく歩いて自治体が変わると、また「清流」に見える場所があるのです。
川の中の構造物の違いや、周辺のゴミ収集方法などが影響しているのかもしれません。


都内の川はいくつかの区や市を流れていくので、その自治体の境で、こうした川の周辺工事のデザインが全く変わってしまうようです。


おそらく、治水工事や耐久性という点では何らかの共通した業務基準があるのでしょうが、自治体の財政や事業の優先度をどこにおくかなどの違いで、これだけ川の風景が変わるのが興味深いと思いました。



<公共性とは何か>


publicという概念の記事でも公共性という言葉についてWikipediaの説明を引用しながらその意味を考えたのですが、その記事を書いた数年前はまだ「公共」は「私」に対する言葉として捉えていました。
「公共事業」に対して「民営化」といったニュアンスです。


川沿いを見て歩くことで、最近はむしろ「標準化されたもの」と「個人的な経験」の比に近いニュアンスを感じています。


自治体やそこから請け負った業者がそれぞれ「自分のやり方が一番」で建設したものが、全体からみると必ずしも善いわけではなかったり、やはり他の自治体や業者の経験や失敗から学び、標準的な何かが作られていく。
そしてそれぞれの地域の多様性の中でも、通用するような連続性のある標準化された何か。


「民営化」とか「経営の合理化」といった言葉に飛びつくと、その標準化された公共性の連続性を失うデメリットはどうなのかと、最近の話題にちょっと不安を感じました。


まあ、公約を読み直しても書かれていない話題が唐突に出てくる時には、要注意のような気がしますけれど。




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