境界線のあれこれ  83 <「体育」と「スポーツ」の違い>

先日、2020年から「体育の日」が「スポーツの日」に変わるというニュースがありました。
その少し前に私は偶然、野口智博氏の「体育」と「スポーツ」という記事を読んでいたので、ちょっと唐突感のあるそのニュースの背景がつながりました。


日本語と英語では同じことを指しているようでも、微妙にニュアンスが違うことを感じることはしばしばあります。
swimmingも、日本の場合には「水泳」と「競泳」の両方の意味を含みますしね。


あるいは、世界中でまだその概念が言語化されていなくて、先に外国語で表現された概念を受け入れて日本語を当てはめた葛藤(conflict)のような言葉も、いつの間にか「日本語」として馴染んでいるのかもしれません。


<体育とスポーツ>


私の感覚としては、「体育とスポーツ」という区別よりは「体育と運動」という区別の方がしっくりきます。
体育は授業的なもので、運動は部活を含めて個人が主体的に行うもの、という感じ。
「スポーツ」はむしろ、スポーツ選手のようにプロ的なニュアンスを強く感じていたような記憶です。


ですから、冒頭の休日の名称変更も、どちらかといえば「運動の日」の方がしっくりきそうですが、まあ、運動にもまた別の意味があるので難しいですね。


野口智博氏のその記事に、体育とスポーツの違いが説明されています。

これまで、私自身も一般授業のスポーツに関する講義授業で、少し触れてきましたが、「スポーツ」には言葉の成り立ちや歴史があり、「体育」にもまた、「身体のための教育」とか「身体を用いた教育」という意味がありました。

そのうち、「体育」には時代が進むに連れて様々な付加価値がついてきます。
例えば、部活動における「体育」では、「礼儀作法」を身につけることとか、「上下関係」「強い選手・弱い選手の関係」など、様々な「ヒエラルキー」を調整したり、近年は「社会的スキルの構成」も乗っかって、本来の「身体を動かす楽しみ」が、より「人間形成」に偏りつつあるようなイメージも持たれています。
「スポーツ」という言葉も同様です。最初は「遊び」「日常からの逃避」という目的で行われていた身体活動が、「ヘルスプロモーション」という言葉が生まれて以降、徐々に「健康維持・増進」という付加価値が加わり、近年では自治体挙げて「保険料」の軽減をしようといった動きも盛んです。近年は「認知機能の維持」とか「転倒予防」といった目的で行われる、様々な試みも出てきています。最近では「ライザップ」に見られるよう、成果主義的なスポーツプロモーションも、かなり多く見られるようになりました。


そして体育、スポーツを教える現場の悩みとともに、こう書かれています。

こういった経緯からも、「体育」「スポーツ」という言葉の意味解釈が、現代では過渡期に達した印象は拭えません。換言すれば、人間が、体育やスポーツに多くのものを期待し過ぎているとも言えます。

それを軌道修正するにしても、より大きなきっかけがないと、見直しは難しいですよね。東京オリ・パラを前に少しでも前に進むべく、この時期に協会が「体育」から「スポーツ」へ名称変更したということは、今一度、「体育」や「スポーツ」の本来の意味を我々も再認識し、時代や場所や目的が違っても、スポーツの本質である「遊び」という要素を外さず、教育や選手強化に繋げる...と漠然とではありますが、思っております。

以前、泳ぐことを学ぶ機会があるということで引用した、野口氏の文章を再掲します。

部活動の体罰の問題、組み体操の事故の問題、様々のトップアスリートの反社会的行為に関する問題、そういった諸問題の多くは、単に「目的達成型」の選手強化やスポーツ活動という「成果主義」的取り組みが進化していく一方で、「なぜスポーツをするのか?」という哲学的問いかけが、遥か彼方に置き去りにされたことを示す事件であると、考えることができます。

そしてまた、スポーツ選手に過剰に期待する世の中の興奮もまた、哲学的問いかけから遠ざける一因なのかもしれません。


体育からスポーツへと言葉が変わったのは、「英語の方がかっこいい」ということとは違うもっと大きな意味があるのだと、野口氏のブログで知ることができました。


ところで、体育の日の「概要」には、1948(昭和23)年にできた当初は「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」ことを趣旨としたことが書かれています。
「体育にしたしみ」ではなく、「スポーツにしたしむ」ための「体育の日」というあたり、日本語には表現しにくい何かがあったのでしょうか。
興味が尽きないですね。




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