専門性とは 5 <専門雑誌とは何か>

前回の記事で紹介した「林業情報」という雑誌の「論壇」を読んで、これが専門職の雑誌なのかもしれないと助産関係の出版のことを思い返していました。


内容が「専門用語でその知識に手も足も出ない」のであれば、助産関係の雑誌もそう変わらないかもしれません。
医学用語や看護用語がたくさん使われていて、基本的な教育を受けていなければ理解しにくいのは似ています。


でも、決定的に違うものを感じてしまいました。


その領域の学問ですでに結論が出ていることや、あるいは研究はまだ途中であっても現場の経験から「そうとは言えない」という点を明確に主張する場があることでした。


<なぜ社会に向けてお産の本質を伝えなかったのだろう>


その「林業情報」と同じ2002年の頃を思い返しています。


当時はまだ琴子ちゃんのことが起こる前でした。
80年代終わり頃から盛んになった、「助産師の手でお産を(産科医がいなくても正常なお産は助産師だけで介助できる)」ことを主張する声に影響されたものの、実際に分娩介助すると出産は母子二人の救命救急であると気持ちが変わり始めていました。
当時は、学生時代に学んだこの本質的な言葉のことは忘れていて、漠然と「助産師だけで分娩介助なんて危険だな」くらいだったと思います。


それでも、「もっと自然にお産ができる」「医療介入は不要」と批判的な記事があればあるほど、まだ「自分の経験が足りないから、あるいは、病院だからそういう理想的なお産にできないのかな」と多少、気持ちが揺らいでいました。


その後もっと小規模で、病院に比べればローリスクを対象とした家庭的な産科診療所に移っても、怖いお産はたくさんありました。


ところが当時の助産関係の雑誌は、「自然なお産」や助産院を守ろうという内容がほとんどでした。


社会の一部の人が求める理想に追従する内容ばかりで、「お産を甘くみてはいけないよ」となぜ誰も伝えようとしなかったのだろう。
当時は、現場で感じる葛藤を誰も助産師の上層部が声にしてくれないばかりか、産科医が次々と分娩の場から撤退していくのを助産師にとっては好機と捉えて院内助産を推し進めようとまでしていました。


2007年に琴子ちゃんのお母さんが「助産院は安全?」というブログで、矢面に立ちながら疑問をぶつけました。
助産師による分娩介助を進めようとする人たちは、耳を傾けようとはしなかったように見えました。
助産関係の雑誌でも、このブログから安全性を考えようという記事もありませんでした。


同じ頃、ホメオパシー代替療法を無責任に進める風潮も広がりましたが、その件についてまともな議論も警告を出すこともありませんでした。
カンガルーケアで事故が起きても、母乳育児推進で新生児やお母さんたちが追い詰められることがあっても、そういう視点は問題にしない。
その背景にある思想や価値観を誰もが望んでいるわけではないのに、その点についての言及はない。


2009年に読み始めたkikulogのコメント欄で、「曲学阿世」という言葉を初めて知りました。

学問上の真理を曲げて、世間や権力者の気に入るような言動をすること。(デジタル大辞泉
真理にそむいて時代の好みにおもねり、世間の人に気に入られるような説を唱えること。(大辞林第三版)


ああ、これだと、当時印象に残りました。


専門職というのは、あるいは専門職を対象にした雑誌というのは、曲学阿世に陥らないようにしなければいけないのではないか。
そこまではわかったのですが、ではどうしたら良いのか。


その辺りがまだまだ霞の中で、言葉にならないままでいます。




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