食べるということ 30 <食べられるかどうか>

立秋を過ぎると、道端に青いどんぐりや栗、柿などが落ちていて、季節が正確に過ぎていることを感じますね。


散歩をしていると、都内のおしゃれな地域に遺跡が保存されていることに驚くことがあります。
渋谷の猿楽塚古墳や古代住居跡、あるいは先日歩いた代々木八幡宮の中にも縄文時代の竪穴式住居が保存されています。
川や湧水などそばに水がある場所の近くの高台に、そういう遺跡があるようです。


郷土資料館や歴史資料館にもそうした古代の生活の様子が展示されているのですが、「目の前の物が食べられるかどうか」あるいは「どうすれば食べられるか」がわかるようになるまでにどれだけ時間がかかったのだろうと、気が遠くなる感覚に襲われます。


ひとくちに「木ノ実」と言っても、生で食べられるものから、加工しなければ食べられないもの、そしてどうやっても人間には危険なものもありますしね。
「これは食べられる」とわかるまでどれだけの失敗が積み重ねられたのだろうと、おそらく子どもの頃からあった疑問なのですが、年々その思いが強くなってきました。



もう正確に観察され分類され尽くしているのではないかと思うほどの身近な植物でも、毎年のように事故のニュースがあります。
匂いだけでわかりそうなニラとスイセンの間違いが起きるのは不思議ですが、よほど近い場所に2種類が植えられていたのでしょうか。


まあでも、道端に木ノ実が落ちていたり植物に実がなっているとついつい食べられるかなと思いたくなりますし、水族園の水槽の前でも食べられるかどうかが気になってしまいます。


現代のように、「なま肉は危ないよ」「作り置きは危ないよ」といった正確な知識に裏付けられた情報さえ、人間の「そうして食べてみたい」という欲望の前には無力で事故が絶えなかったり、反対に安全に問題なく食べられるものを忌避したり、「それは食べられるものなのか」をどう選択するかはヒトの永遠の課題なのかもしれませんね。


食べ物を得るということは大変なことだと、しみじみ思うことが増えてきました。




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