水のあれこれ 180 有明海の干潟

クリークについてWikipedia筑紫平野に説明があります。

「クリーク」の呼称は戦中(昭和初期)以降に使われるようになった外来語で、従前は専ら「堀」(ほり、または訛ってほい)と呼んだ。現在は両方が用いられる。" creek"は小川や川の支流、入り江を指すのが本来の意味だが、灌漑(かんがい)や水運を目的として人手の入った水路や運河を指す場合がある。筑紫平野の例は後者。

 

その中に横武クリーク公園の写真があるのですが、あのダイナミックさは一部を写したものでは伝わりにくいですね。

通常の地図でもわかりにくくマップをぐんぐんと拡大して初めて気づくもので、「網の目のように」とも違う、なんとも表現しにくい複雑な水路と集落です。

 

佐賀平野と同じく、筑後川左岸の筑紫平野にも同じような水路が広がっています。

 

*「過去何千年と繰り返されてきた自然の造陸現象」*

 

40年前の記憶でも、このあたりは佐賀平野筑紫平野でした。

ずっと昔から平野で、だから水田が造られたとつい最近まで単純に理解していました。

佐賀の干拓について検索すると、「肥前佐賀の水土の知」という資料があります。

今まで「干拓」とイメージしていたものともまた違う世界でした。

 

「第一章 有明海の造陸現象 一年間に十m」の図に古代の海岸線があるのですが、吉野ヶ里遺跡が沿岸から離れていることの説明が書かれています。

 海岸線からは、およそ20km、筑後川からでも8kmは隔たっている。海の産物を食べなかったわけでもあるまい。遺跡からは牡蠣(かき)の殻も見つかっている。何故もっと海の側に造らなかったのかと。

弥生時代、はるかに温暖であったせいか海水面は今よりも5m程高かったと言われている。この平野の海抜4~5mの線を結ぶと図1のようになる。そしてこの線上に多くの貝塚が見つかっている。

 

現在の長崎本線よりもさらに山側まで、ここもまた海だったようです。

関東平野利根川東遷事業など川を付け替えることで平野が広がったのですが、佐賀・筑紫平野は全く異なりました。

平均干潮位はマイナス1.89m。満潮位との差は5.55m。時に、干満の差は最大6mに達するという。もちろん、これほどの干満差は国内でも類がない。

有明海は、巨大な湾とも言うべき海であるが、その入り口は島原半島の先端で約4.4kmという極端な狭窄(きょうさく)部となっている。そこから最奥部の住之江まで奥行きは約90km。4時間毎に起こる湾内の海水自動運動と12時間毎に起こる湾外の潮位との振動とが共鳴して、極端な干満差を発生させる。

 

一方で、九州最大の河川・筑後川は、阿蘇山の火山灰を大量に含む山からの土砂を有明海に運び込む。微細な浮泥は海水のNaイオンの作用でコロイド状になって、満潮時には沿岸に、干潮時には沖合まで運ばれて、薄く広く堆積する。

この運動が1日2回繰り返されることによって、次第に広大な干潟が形成されていく。過去何千年と繰り返されて来た自然の造陸現象。

現在も、沖合まで7kmという広大な干潟が広がっている。筑後川河口付近では、1年間に約10m(干潟の上昇は7cm)の割合で、海岸線が有明海に向かって成長し続けているという。

 

有明海というと遠浅の干潟にムツゴロウが跳ねているのんびりしたイメージでしたが、地図をみると、干拓や埋め立てで造成された海岸線の場所が多く見られます。

「過去何千年と繰り返されて」造られた海岸線が、現在では驚異的な速さで陸地に作り変えられていることと、それでもなお1年間に10m、海岸線が有明海に向かって成長しているとは。

 

大昔から少しずつ干潟などを農地に変えて来たという私のイメージはあまりに大雑把で、地面のことを知らなさすぎました。

 

 

 

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