桜の花が散り始めると、一気に新緑の季節になります。新緑に誘われて、山の方へ行ってみたくなりました。
以前、購入した「東京湧水 せせらぎ散歩」 に紹介されているコースも、いつの間にか大部分制覇しましたが、まだ行っていないところがあります。
「拝島丘陵・秋留台地・草花丘陵」もそのひとつ。
四半世紀ほど前に一緒に働いていた同僚がこの「草花」に住んでいたことがあって、その地名を聞いただけで花の楽園でもあるかのように妄想したのでした。
当時はまだ秋川市で、その後市町村合併であきる野市になりました。
1990年代の市町村合併では平仮名やカタカナの地名を選択する自治体が多かった印象ですが、その中でもあきる野市はとても印象に残っています。
というのも、それまで使われていた「阿伎留」とか「秋留」という漢字と読み方から、なんだかそこには邪馬台国をイメージするようなすごい歴史のある別世界を勝手に思い浮かべていたのでした。
漢字のままの方がいいのにちょっと残念と、記憶に残っているのです。
多摩川の右岸にあたり、秋川(あきがわ)が流れ込むその地域を歩いてみようと、その本に紹介されていた東秋留駅周辺から散歩をスタートしました。
*二宮神社と八雲神社*
「東秋留」と漢字で残っていることに、以前の妄想が思い出されて心が踊りました。
地図を見ていると、駅周辺には青い水路があちこちに残っているようです。
駅に降りると駅の北側は一段高くなっていて、秋川の河岸段丘のように見えました。その勾配を感じながら二宮神社に向かうと、さらに小高いところにある神社でした。
湧き水を探したのですがよくわからず、隣接する二宮考古館も休館日でした。
一旦、駅へ戻る途中に小さな池のある公園があって、せめてその池の水を見たいと思ったのですが、高校生がたむろしていたので立ち寄らずに八雲神社へ向かいました。
帰宅して「東京湧水せせらぎ散歩」を読み直したら、こんな説明が。
社殿は秋留台地の東端崖上に位置し、参道階段下の道を隔てた飛び地に湧水がある。湧水量は非常に豊富で、透き通った池は古来より貴重な水源だった。
ああ、あの公園のことではありませんか。
人の書いたことをしっかり読みなさいということですね。
駅の反対側の八雲神社に行って見ました。踏切を渡ると、秋川の河原に向かっていることを感じるような緩やかな下りの道です。
八雲神社の境内に入って見渡しましたが、それらしき池がわかりませんでした。
もう湧水が枯れてしまったのだろうかと一抹の不安を抱きながら境内を歩くと、桜の花びらが掃き集められていると思った場所が、よくよく見ると池でした。
花びらの下には、透き通った湧水が少しずつ湧いているのがみえます。
その池から出る水路をたどっていくと、神社から離れるにしたがってまた別の湧水からの水路が合流し、100mもいくとかなり水量の多い水路になっていました。
そのそばを下校する小学生が歩いています。
子どもの頃に用水路のそばを歩いて登下校していた自分と重なって、楽しくなりました。
残念ながら200mほどできれいな水は暗渠に入ってしまいました。
あっけなく終わった散歩に、秋川の川岸まで行こうか考えたのですが、地図をみるともう一本水路があることに気づきました。
まっすぐな水路なので農業用の用水路なのかと思っていたのですが、片側の方が少し高い地形に沿って清流が流れ、草花が植えられてよく整備された遊歩道になっていました。
それをずっと辿っていくと、どうやらあの八雲神社辺りからの水が分かれて流れているようです。本にも、「このあたりは湧水を利用した米どころであった」と書かれています。
線路のそばに公園があり、「前田耕地遺跡」についての説明がありました。
前田耕地遺跡は、多摩川支流の秋川と平井川に挟まれた段丘上に位置し、昭和51年(1976年)から59年(1984年)まで発掘調査が行われました。この調査で、縄文時代草創期から古代に至る集落跡が確認されました。
とりわけ、草創期に属する二軒の住居跡は、この時期に属する住居跡としては我が国での最初の 発見例として注目されました。そのうち一軒の住居跡からは、クマなどの動物骨とともに、サケ科魚類の顎歯が約八千点出土しました。これは、日本列島における最古の内水面漁撈活動を示す考古資料となっています。
また、河原の高まりに進出した縄文人は付近に豊富にある良質のチャートを石材として、石槍などを大量に製作しました。その際に生じた石の破片のまとまりが六ヶ所発見されています。
平成二十二年三月 東京都教育委員会
私の邪馬台国の妄想も、当たらずとも遠からじといった古い歴史のある台地だったようです。
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