記録のあれこれ 36 信濃川大河津資料館

分水を訪ねることに決めてから、今まで思いついたこともない疑問が出てきました。

なぜ新潟県は「新潟」というのだろう、と。

 

頼みの綱のWikipediaにも答えがありません。新潟市のホームページに「新潟市の歴史」があって、そこには以下のような記述がありました。

新潟の地名が記録に現れるのは戦国時代の永正17(1520)年です。信濃川河口右岸の蒲腹津と、阿賀野川河口(現、通船川河口)右岸の沼垂湊に、信濃川河口左岸の新潟津が加わり、合わせて「三か津」と呼ばれました。

越後と呼ばれていた時代に、「新潟」というのはどういう意味を持っていたのでしょうか。

 

*「行き場のない水が容易に引かない」土地*

 

Wikipedia大河津分水の「分水路の開削」に越後平野について説明があります。

越後平野は古代において海面下にあり信濃川阿賀野川が運んでくる沖積土砂により低湿地として埋め立てられた沖積平野である。そのため川の水面よりも低い土地がかなりの面積を占め、ひとたび洪水が発生すると水がすぐに溢れ、しかも行き場のない水が容易に引かないという状態であった。(強調は引用者による) 

 

さて、分水駅に到着してから、大河津分水路の堤防沿いに約1.5kmほど歩いて資料館へ向かいました。

堤防の上も遊歩道になっているのですが、ちょうど工事中で立ち入り禁止でした。そこで、堤防よりも2mほど低いところにある道を歩いたので、全く分水路の流れは見えず、黙々と歩きました。

 

越後平野のなりたち」の「約6000年前」の地図が目に入りました。

越後平野は大きな入江(入り海)となっていて、まだ陸地ではありませんでした。このころ海岸部では砂丘が細長く伸びはじめました。

現在の新潟県の海岸線からはるかに内陸部までほとんどが海だったようです。

 

「約350年前(江戸時代初期)」になると、現在に近い沖積平野が形成されていたようですが、まるで血管のように大小の川が張り巡らされている地図でした。

たくさんの潟や沼をもつ低湿地の中を、信濃川をはじめとする大小の川が、曲がりくねって流れていました。川筋は洪水があるたびにしばしば変わりました。加治川も阿賀野川信濃川に注いでいました。

 

関東平野の歴史が重なります。

 

「行き場のない水が容易に引かない」、それが「潟」に込められているのでしょうか。

 

*明治から昭和への大工事*

 

江戸時代から計画があったものの、ようやく明治に入って「信濃川河身改修事業」が決まったようです。

ところがしばらくすると、当時工事が行われていた新潟港へ土砂が流入することや、地元の反対運動で一旦中止されたようです。

その後、1896年の信濃川の空前の大水害とされる横田切れを契機に、分水工事を求める声が高まり1909年(明治42)に再開されたようです。

 

計画当初とは比べものにならない掘削機などの機械や技術の驚異的な変化の時代を迎え、1922年に分水路が開通しました。

 

ところが、その5年後に自在堰が陥没し、この時には海水が周辺地域の水田や井戸にまで流入したため、何年もの間、大変な状況であったことが展示されていました。

資料館のサイトにはこう書かれています。

▪️6月24日は自在堰が陥没した日です 

1922(大正11)年に完成した自在堰は、水と空気の力を利用してゲートを動かし水量をコントロールする特徴的なしくみでした。しかし、完成から5年後の1927(昭和2)年6月24日に突如として陥没してしまいました。

ちょうど 今から92年前のことです。

 

その後も塩害や洪水の危機の中、補修工事が行われ、1931(昭和6)年6月20日に完了したそうです。

 

展示の中では、分水路による治水が行われなければ、地盤が不安定なこの越後平野に高速道路や新幹線を通すこともできなかったことが書かれていました。

日帰りで新潟まで分水路を見に行くなんて、一世紀前には夢物語だったのだと改めて思いました。

 

分水資料館から橋を渡って寺泊駅まで歩く途中で、廃線路が残っている場所がありました。

工事でトロッコが走っていた場所なのだろうか、当時の工事の風景はどんな感じだったのだろうと想像しながら歩きました。

 

 

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