信濃川分水路の堤防沿いに大河津資料館を目指して歩いていると、92年前に陥没した自在堰跡があり、そこからいくつかの石碑があります。
その中でふと目にした石碑に、見覚えのある名前がありました。
青山士(あきら)氏です。
最初はたしか荒川知水館で、そのわずか3ヶ月ほど後に、今度は地図と測量の科学館で名前を目にしたのでした。
その際、マラリアを始め熱帯病で多数の人が命を落としたパナマ運河の工事に、唯一の日本人として関わり、日本の近代土木に大きな貢献をされた方だということを初めて知りました。
大河津資料館の手前にある石碑に「人類の為」という文字が見えて、最初はなんだか理想に燃えてという感情が読み取れて気恥ずかしく感じたのですが、資料館を回っているうちにハッとしたのでした。
「人類」という日本語と概念は、いつごろどのように受け入れられていったのだろうと。
*「人類ノ為メ國ノ為メ」*
青山士氏は1878(明治11)年の生まれで第一高等学校在学時に内村鑑三と出会ったと書かれていますから、1890年代でしょうか。
内村鑑三の講演で「子孫のためになる仕事の例として土木技術を挙げている」(Wikipedia、青山士の「生涯」)など、大きな影響を受けているようです。
「家の為」あるいは「村」「藩」「幕府」のためぐらいが、それまでの時代では社会として認識されていた範囲ではないかと想像するのですが、明治20〜30年代頃までにそのイメージはどのように変化していったのでしょうか。
さらに「子孫のため」だけでなく「國の為」「人類の為」へと変化したのは、当時、どんな社会の雰囲気によるものでしょうか。
人類とは、個々の人間や民族などの相違点を超える《類》としての人間のことである。
(Wikipeida、「人類」)
人類という言葉を当たり前のように使っている現代ですが、一世紀前にその新しい言葉と概念をどうやって理解していったことでしょう。
あの、経済や葛藤もそうですが、言葉や概念の広がりもまた驚異的に変化する時代があるのかもしれません。
「人類の為」と聞いて気恥ずかしく感じたのは、むしろ私自身がまだこの言葉や概念を理解しきれていないからかもしれないと思いながら、帰り道にもう一度、石碑に立ち寄ったのでした。
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