水のあれこれ 263 信濃川と中ノ口川

大河津分水路で信濃川の一部が日本海へと流れ、そこから信濃川は細い水色の線で描かれます。

パソコンの拡大できる地図でなければ、どこが信濃川本流なのか見落としそうな川幅ですね。

その大河津分水の先の信濃川も歩いてみたいと思うのですが、公共交通機関のない水田地帯が続き、さらに「熊森」という地名までありますから二の足を踏んでいます。

 

その熊森の先で、南から流れてくる中之島川と刈谷田川が信濃川に合流し、少し太い水色になります。

そこからさらに1.2kmほどのところで今度は信濃川ともう一つの流れに分かれて、瓢箪のような形の場所の中に燕三条駅があり、さらにその少し下流ではその二つの流れがわずか100mほどに近づく場所があります。このあと、二つの流れは次第にしばらく離れて、そして曽川バス停の手前で合流しています。

 

この熊森から曽川バス停の間は、巨大な中洲なのでしょうか。ずっと素朴な疑問でした。

 

 

中ノ口川の歴史*

 

信濃川と分かれているのが中ノ口川で、行き場のない水によってできた川かと思っていたら少し違っていました。

 

Wikipedia中ノ口川を読むと、改修の歴史が書かれていました。

直江兼続が河道を整備したという伝説が残っている。それによると、中ノ口川直江兼続信濃川の自然流路を改修し治水工事を行い、かつて直江川(なおえがわ)とも呼ばれていたと伝えられている。

 

直江兼続の「豊臣政権時代」にもう少し詳しく書かれています。

新発田重家の乱では重要な戦略地・新潟を巡り激しい攻防が続いていたが、天正11年(1583年)、当時新潟は湿地帯だったために豪雨により上杉勢が敗北する。兼続はこの対策として、川筋が定まらず本流と支流が網の目のように流れていた当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削する(味方村誌)など、現在の新潟平野の基礎を造り、着々と新発田勢を追い詰め、天正13年11月20日(1586年1月9日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐した。これにより新潟湊の経済利権を失った新発田重家は急速に弱体化した。

 

日頃は、こういう日本史の内容は目が滑って頭に入らないのですが、なぜか川から見ると興味が湧きます。

 

 

*三角州だった*

 

コトバンクにも二つ、中ノ口川の説明がありました。

 

中ノ口川

 

新潟県の中央、西蒲原(にしかんばら)郡と白根(しろね)市の境界をなす、信濃川(しなのがわ)三角州面の支流。洲頂の燕(つばめ)市八王寺(はちおうじ)から新潟市西区大野町までの延長31.9キロメートルの間をいう。かつては三角州面の白根島と鎧(よろい)潟の間の洲島の排水路をなす自然流であったが、中世直江兼続(かねつぐ)によって人工運河に改修され現在の流路に固定された。近世左岸の鎧潟郷は長岡、村上藩天領、諸藩領に分割統治され、右岸の白根島は新発田(しばた)領に属し、諸藩の年貢米を新潟湊(みなと)に運ぶ河川交通路として重きをなし、燕、白根、大野などは河岸場(かしば)町としてにぎわった。沿岸は蒲原平野の穀倉地帯で、大型機械化農業が発達し、自然堤防上の諸村は蔬菜(そさい)、青果の生産地で、とくにブドウ、モモ、ナシの産地として全国的に有名である。

日本大百科全書(ニッポニカ))

 

三角州というと河口に広がるイメージです。

途中で中ノ口川は再び信濃川に合流するので三角州と呼べるのだろうかと思いましたが、コトバンクの「三角州」には信濃川の三角州として書かれていました。

あの信濃川と阿賀野川がつながっていたような混沌とした河口付近の時代は、もともとは燕市あたりからの広大な三角州だったという分類でしょうか。

 

 

世界大百科事典の「白根(市)」内では輪中があったことが書かれています。

…人口3万8653(1995)。新潟市の南に位置し、信濃川下流とその分流中ノ口川に囲まれた南北に細長い輪中(わじゅう)をなす白根郷の大部分を占める。標高2m前後の低湿田地のため洪水に悩まされてきたが、1927年信濃川の大河津(おおこうづ)分水(新信濃川)が完成し、耕地整理も行われて越後平野の先進的穀倉地帯となった。

 

大河津分水路により穀倉地帯になったかわりに、水位が低下して舟運がなくなった(Wikipedia中ノ口川」)こともあるようです。

 

それにしても海抜2mとか海抜マイナス地帯の潟が広がる場所を、どうやって水が流れるように開削して行ったのでしょうか。

戦国時代から江戸時代初期の土木事業は、どんな世界だったのでしょう。

 

信濃川流域について知れば知るほど疑問が増え、深みにはまっていくように興味が広がっていきます。

 

 

 

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