念願の福島潟を訪ねることができて満足し、福島潟へ向かった時とは違う道を選びながらまたJR豊栄駅へと戻りました。駅へ向かう道が少し上りで、潟の地形を実感しました。
それでも駅前の表示では海抜2.1mだそうです。
15時48分の豊栄発新潟駅行きの列車に乗りました。この辺りでまた方向感覚がおかしくなり、やはり幼少時からの私と太平洋との位置関係が基準かもしれません。
列車は阿賀野川の河口付近を渡りました。
地図でも信濃川河口の2~3倍の太い水色の線で描かれていますが、中洲を挟んで広々とした流れでした。
左岸側にも水田地帯が広がり、大形駅に到着しました。「大形」は「大潟」に通じるのだろうかと考えているうちに住宅地になりビルが増え、20分ほどで新潟駅に到着しました。
この日は6月中旬の蒸し暑さの中、午前中に米沢市内の水田、午後は福島潟まで歩きましたからちょっと疲れていましたが、今回こそ訪ねようと思っていた場所へもうひと頑張りです。
*信濃川河口を訪ねる*
これまで信濃川の関屋分水や大河津分水路を見に何度か新潟市を訪ねたのですが、いまだに肝心の信濃川の河口を見たことがありません。
新潟駅周辺もいつも素通りでした。
いつか萬代橋を見て、万代テラスから河口付近の流れをみよう。それを実行します。
ビルと広い道路と街路樹が整然と美しい中心部を通り、萬代橋までバスで行きました。
橋のたもとにいくつかの石碑があります。
■架橋の由来
初代萬代橋(高さ782m、幅7.3m)は、明治19年(1886年)に、長大な木橋(もっきょう)として大河(たいが)信濃川に架けられました。
明治41年(1908年)の大火で初代萬代橋は焼失しましたが、二代目萬代橋が翌年暮れに初代萬代橋とほぼ同規模(長さ782m、幅7.9m)で再建されました。
大正11年(1922年)の大河津(おおこうづ)分水通水を期に実施された信濃川の河状(かじょう)整理により、架橋地点の川幅が3分の1の270mに縮小されました。また、関東大震災の復興事業により近代橋梁技術が飛躍的に向上しました。これらを背景として、二代目萬代橋の永久橋(えいきゅうきょう)への架け替えが経済的、技術的に可能となりました。
三代目萬代橋は、内務省復興局技師田中豊及び成瀬勝武の指導のもと、福田武雄が作成した設計書に基づき昭和2年(1927年)7月に起工し、昭和4年(1929年)8月に竣工、今日に至っています。
平成16年(2004年)7月6日に、三代目萬代橋は国の重要文化財に指定されました。また、同年、照明灯、橋則灯(きょうそくとう)が建設当時の設計図書をもとに忠実に復元されました。
川幅いっぱいに悠々と流れる信濃川に、一世紀ほどびくともしないで立っている萬代橋です。
ようやく見ることができました。
「関東大震災の復興事業により近代橋梁技術が飛躍的に向上した」
橋の歴史もほとんど知らないままでした。
*万代テラスで河口を眺める*
堤防は国土交通省によって「やすらぎ堤」という遊歩道として整備されていました。
その名の通り幅も広く、緑と石畳が美しい堤防をのんびりと歩きました。
河口に向かって歩くと水辺に近づけるように広場になっていて、そこが万代テラスでした。
生ビールを飲みながら信濃川の流れと少し先の日本海を眺めました。
30年ほど前に信濃川を訪ねたことがこんな形で続くのですから、人生は本当に不思議ですね。
そして信濃川水系の治水の歴史に圧倒されていたのはまだまだ序の口で、潟という地形での排水との闘いと、信濃川だけでなく阿賀野川などの複雑な流れを何世紀もかけて整備してきたことが少し見えてきました。
それにしても、大河津分水路が完成する前は川幅が現在の3倍もあったとは。
信濃川の威力にまた圧倒されました。
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