運動のあれこれ 34 「中海・宍道湖の干拓淡水化事業の歴史的回顧」

宍道湖と中海の干拓について検索してすぐに目に止まったのが、昨年2月に松江市が開いた「第11回市史講座ミニレポート」の「中海・宍道湖干拓・淡水化事業の歴史的回顧」(徳岡隆夫氏、島根大学名誉教授)でした。

 

私の忘備録として書き写しておこうと思います。

 

 今回の講座では、島根大学名誉教授で地質学・汽水域環境が専門の徳岡隆夫先生より、中海・宍道湖干拓・淡水化事業について、1963年の本格スタートから紆余曲折を経て中止となり2014年に事業が終結するまでの50年を、史料に基づく科学的見地からふりかえってお話いただきました。

 

 徳岡先生が島根大学に赴任されたのは1980年。中海干拓事業が大詰めを迎え、中浦水門を締め切って淡水化試行に入る段階でした。当時は水質についての議論が盛んだったそうです。地質学の教材として宍道湖・中海を取り上げたのがきっかけとなって以降40年にわたって干拓淡水化問題に係ることとなり、2019年1月には島根大学エスチュアリー研究センター内に関係資料を集めた「中海宍道湖干拓淡水化データバンク」を整備中と報告されました。

 

 中海・宍道湖干拓・淡水化事業は、戦後の食糧不足を背景に、秋田県八郎潟、石川県の河北潟に次ぐ日本で3番目の大規模干拓事業として計画されました。最初の計画は島根県が1954年に策定した「斐伊川宍道湖・中海総合開発計画」。その後、1963年に農林省による中海・宍道湖干拓事業が始まり、1968年に本格工事が開始されます。1988年に工事がほぼ 完成する段階で、淡水化試行は延期。その結果、一部の工区は事業が完了して営農が開始されましたが、最大の本庄工区の工事は凍結され2000年に中止。2002年には淡水化も中止が決定されました。事業の後始末は2003年に始まり2014年に完了しました。一旦動き出したら止まることがないと思われていた国営事業が、科学者の研究と提言、住民運動によって中止された稀有な例と言えます。

 

 徳岡先生はこうした経緯を5期に区分けし、各期の代表的な史料を紹介されました。

・1期: 1964〜1967年、本格事業から漁業補償の解決まで

・2期: 1968〜1983年、本格工事の開始から水理水質生態調査中間報まで

・3期: 1984〜1992年、淡水化試行要請から反対運動の高揚まで

・4期: 1993〜2002年、再び本庄工区干陸提案から中止、さらに淡水化中止まで

・5期: 2003年〜2014年、干拓淡水化事業の事後処理

 

 1期では、干拓先進国オランダのヤンセン教授を招いて岡山で行われた講演報告「日本の干拓に関する所見」(農林省農地局1954)、中浦水門を作ると大型船が入ってこられず工業開発が遅れると最初に指摘した「中海地区(島根県)工業開発に関する調査報告書」(中国地方総合調査会1962)などを紹介されました。

 

 2期ではまず、島根県京都大学に調査委託した「地域水需給からみた宍道湖水源の評価に関する調査研究報告書」(末石富太郎1972)、島根県が調査を行った「宍道湖ー水資源としての基礎調査ー」(島根県1970)の2つの報告書を取り上げられました。いずれも、淡水化しても宍道湖の水質はよくならないという結論だったそうです。一方で、1974年に中浦水門が完成。「中浦水門の操作開始と炭水化ー中海干拓事業ー」(農林水産省中国四国農政局中海干拓事業所1980)は、炭水化が湖内の生態系を安定させる、と記しました。1982年には島根大学地域分析研究会が「中海・宍道湖の自然を守る会」を結成し、「飫宇(おう)の入海中海とその淡水化をめぐって」を刊行。並行して、宍道湖漁協や松江青年会議所の反対運動も盛んになります。そうした中、農水省中海干拓事業所が1983年3月に公表した「宍道湖中海淡水化に関連する水理水質及び生態の挙動について(中間報告)」は、淡水化は水質をほぼ維持しながら進めていくことが可能であろう、と結論づけました。

 

   3期では、上記の「中間報告書」に対する伊達善夫島根大学教授ほか科学者の疑問と反論記事を紹介されました。「みずうみの水質」(建設省出雲工事事務所1983)に掲載された1981年8月宍道湖で大量発生したアオコの航空写真は、伊達教授に強い衝撃を与えたそうです。1986年には、沖野外輝夫ほか日本を代表する陸水学の権威が「助言者会議見解」を公表し、「中間報告」に多くの問題があると明らかにしました。これらを受けて住民の反対運動もますます盛んとなり、1988年6月には島根・鳥取両県知事が淡水化凍結を表明。1992年には中海干拓事務所も閉所しました。

 

 4期は、残された本庄工区の干陸化が鍵となります。本庄工区干拓事業再開を告げる島根県広報(1986)を紹介されました。この再開には賛否両論が起こりますが、「美しい中海を守る住民会議」が聞き取りなどをまとめた報告書「調べよう!みんなで中海」(二分冊、1997、1998)は注目すべき成果でした。2000年7月には島根県知事が凍結を表明。同年8月には当時の与党三党の公共事業見直し勧告により、正式に中止となりました。

 

 5期は事業の後始末にあたり、淡水化事業の核心的施設であった中浦水門が撤去され、完了後に記念誌「中浦水門とともに32年」(商船三井海事株式会社ほか2009)が刊行されました。ちなみに島根鳥取の貨物輸送や広域ネットワークのために建設された江島大橋が、CMによって「ベタ踏み坂」として有名になり、思わぬ観光名所になったのは記憶に新しいところです。

 

 徳岡教授は、今はこの「ベタ踏み坂」しか知らない若い人も多いけれど、やはりその背景にある歴史も大切です、と締めくくられました。

 

 

この講座の資料もPDFで公開されています。

 

 

偶然、昨年はこの八郎潟河北潟そしてこの中海・宍道湖の三ヶ所をまわったのですが、「干拓」と言ってもそれぞれの地域の歴史的背景が違うことを少しずつですが知ることができました。

 

 

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