運動のあれこれ  30 内灘闘争

Wikipedia河北潟の「埋め立てと干拓」に以下のように書かれています。

第二次世界大戦後、内灘射撃場問題で内灘村(現在の内灘町)は見返りとして河北潟干拓事業を要求。1963年から農林水産省による国営事業として行われ、約1100 haの農地が1985年に完成した。

 

この「内灘射撃場問題」が風と砂の資料館の入り口に書かれていた「内灘闘争」のことだと、資料館の展示を見て知りました。

 

内灘闘争*

「砂丘に生きる町」のp.24から、内灘闘争について書かれています。

「米軍の砲弾試射場に」と政府 

内灘闘争は第二次世界大戦後の日本国内で最初に起きた基地反対闘争と言われています。「金は一年、土地は万年」をスローガンに繰り広げられた激しい反対闘争は、その後、全国で行われた数々の基地反対闘争に大きな影響を与えた大事件として知られています。内灘闘争は1952(昭和27)年9月20日、日本政府が「内灘砂丘地を日本に駐留するアメリカ軍の砲弾試射場に使用したい」と石川県に伝えたのが発端です。

試射場が必要とされた時代背景が続いて説明されています。

 国有地があった内灘砂丘に白羽の矢

1952(昭和27)年4月28日に「日米安全保障条約」を結んだアメリカは、その年の8月、日本に兵器を大量発注し、翌年2月には当時の小松製作所神戸製鋼に大量の155ミリ榴弾を発注しました。そのころ、アメリカは「朝鮮戦争」の最中で、大量の兵器や砲弾を消費していました。これに伴い、日本政府には砲弾をアメリカ軍に納入する前に試射する場所がどうしても必要でした。

その候補地には、愛知県の伊良湖岬静岡県御前崎青森県の八戸、石川県の内灘砂丘があげられていましたが、日本政府が内灘に白羽の矢を立てたのは、内灘

砂丘に第二次大戦以前、旧日本陸軍が実弾射撃演習場として使用した国有地があること、砂丘地であり住民への補償額が少なくてすむと考えられたことが、理由とされています。

 

これに対して内灘村は「4ヶ月の期限付きでの砂丘使用、砂丘地における国有地を4ヶ月以内にすべて村へ払い下げること、期限後のアメリカ軍駐留は認めないこと、村への補償金を即時現金払いすること」の条件を提示して、試射場として使われることが決まったのに対し、建設などが遅いペースで行われて行くことに「地元では約束に反して永久使用を目指そうとする政府への反感が高まった」ことと、近隣の町村にまで響く爆弾の炸裂音が問題になり反対運動が始まったようです。

 

国会前でのデモや130日間にわたる座り込みなどで、ようやく政府との妥協案が認められ、1957(昭和32)年に内灘試射場は地元に返還された経緯が書かれています。

 

*「反対闘争の主役は住民であるべし」*

 

印象的だったのは、「愛村同志会」というコラムでした。

1953(昭和28)年夏、内灘村には、全国から闘争支援に駆けつける共産党系などの労働者運動や学生運動が続々と集結しました。反対デモや村民が座り込んだ鉄板道路、漁具小屋などでも、争議運動に手慣れた外部の運動家が目につき、「反対闘争は住民が主役でなければ意味がない」とする声が出始めていました。

内灘村では、外部の応援部隊にあおられる形で警察の警告を無視した抵抗運動も目に余っていました。同年八月二日、内灘村議会は外部団体との絶縁を決定しますが、それでも規律を乱す行動はやまず、大根布農協や大根布の若者たちが八月十六日に「外部団体は去れ」と旗印とする愛村同志会を結成したのです。

メンバーは他の地区に出向いて、「外部団体との絶縁」を訴えましたが、血気盛んな若者が中心だったこともあり、集会でのたけだけしい言動が批判されることも少なくありませんでした。しかし、地道な運動を続けるうちに、「村がかき乱されるのは許せない」「住民の純粋な行動が運動家の主義主張に利用されているだけ」と、趣旨に賛同する住民も増え、旗揚げの大義が立った愛村同志会は「任務は完了した」として解散したのです。同年九月のことでした。

 

あの高井戸清掃工場の反対期成同盟の、「どこからも闘争支援は受けない」という考え方に通じるものがあるのでしょうか。

 

反対運動の歴史をここまで書きとどめている内灘町史は、読みごたえのあるものでした。

 

住民運動や反対運動と一口に言っても、やはり実際に歩いて見ないと、それぞれの違いは見えてこないものかもしれませんね。

そして運動が目的になると、方向を見誤ることはいつの時代にもあるのだろうと。

 

 

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