米のあれこれ  8 八郎潟

八郎潟干拓について、小学生の頃に社会科で習った記憶が強く残っています。

そのころは、祖父の田んぼが干拓によって作られた地域だったとは全く考えたこともなく、日本で初めての干拓地が八郎潟であるかのような理解をしていました。

それぐらい、当時は国をあげての大規模な農業事業だったのかもしれません。

 

昨年、倉敷の干拓の歴史を実際に見てみようと訪れた時から、いつかは八郎潟もこの目で見てみたいと思っていましたが、地図を眺めてはちょっと遠いなあとため息をついていました。

 

で、先日、行ってみました。

 

用水路や干拓地を見て歩くのもそろそろシーズンオフかなあと思っていた時に、ふと東北に行こうと閃いたのでした。春の訪れが少しゆっくりそうですからね。

目の前に広がる広大な水田地帯は、ちょうど田植えが始まったばかりでした。

車で行けども行けども、ずっとまっすぐな道が続いていました。

はるかに見える雪の残った山だけが、唯一位置を確認する手段でした。

 

用水路や排水路もまっすぐ続き滔々と水が流れていて、広い調整湖は倉敷の児島湾と同じく真っ青に水を湛えていました。

 

*周囲からは見えない八郎潟

 

これまでも干拓地を歩いてきたので、八郎潟駅までの奥羽本線の車窓からも八郎潟が見えるだろうと思っていました。たとえば印旛沼利根川流域のように、対岸まで見渡せるような平地を想像していました。

ところが八郎潟は調整池までは車窓からも見えるのですが、その先は土手で遮られていて、イメージしていたような水田が広がる景色ではありません。

 

よくよく「大潟村旬景浪漫」という観光パンフレットを見直すと、大潟村は海抜マイナス4mになっていて、日本海よりもかなり低い場所に造られているようです。

そしてその周囲をぐるりと、日本海よりも高い位置で残存湖の水位が保たれているようでした。

八郎潟干拓地に入ると、途中、「大潟富士」というランドマークがあって、「高さは富士山の標高の千分の一に当たる3.776メートル、頂上がちょうど海抜ゼロメートル」とありました。

 

八郎潟の歴史*

 

観光パンフレットには、「大潟村の誕生」とまとめられています。

 かつての八郎潟は、琵琶湖につぐ日本第2の広さを誇る湖でした。1954年(昭和29年)にオランダのヤンセン教授とフォルカー技師の来日を契機として、同年の世界銀行および翌年の国際連合食料産業機構(FAO)調査団が調査した結果、干拓事業の有用性が内外に認められました。

 20年に及ぶ歳月と総事業費852億円の巨費を投じて世紀の干拓事業は、1977年(昭和52年)3月に完了し、八郎潟の湖底は17,239haの新生の大地に生まれ変わりました。                     

 

たしかに明治時代には  リンド技師をはじめ外国からの技術を多く得てきたのですが、干拓に関しては江戸時代から新田干拓も盛んでしたし、終戦直後には私の祖父も技術者として中南米へいく話もあったぐらい干拓技術のある日本なのに、なぜ戦後オランダの技術者を招いたのでしょうか。

 

帰宅してからWikipedia八郎潟を読み直したら、「歴史」に書かれていました。

小規模な干拓は、江戸時代から行われていた。明治時代に入り、大規模な干拓計画がいくつか持ち上がったが、実現には至らなかった。第二次世界大戦後、食糧増産および働き口のない農家の次男・三男が増加している問題の解決を目的として、干拓の先進国であるオランダから技術協力を受け、20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成された。この事業は、サンフランシスコ講和条約にオランダを批准させるため、賠償金の代わりにオランダへ技術協力費を支払い得る大規模事業をアメリカから求められていた吉田茂に対し、建設省住宅局職員の下河辺淳(後の国土事務次官)が提案したものだった。 

 

こういう形の戦争賠償と戦後補償があったのですね。

 

私が生まれた頃に着工し、小学生の頃には日本の農業の希望のように学んだ八郎潟でした。

その後、減反政策などでどうなっているのだろうと気になっていましたが、半世紀を経て目の前に広がる水田地帯は美しい風景でした。

桜と菜の花ロードは、少し前まで観光客で渋滞になるほど賑わっていたそうです。

 

 

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