水のあれこれ 174 坂川の歴史

坂川沿いに松戸神社まで歩いたあとは、最初の予定では水戸街道を歩いて、江戸川を渡って金町駅から帰宅する計画でしたが、実際に歩いてみるとけっこう距離がありそうです。

坂川沿いにまだ遊歩道が続いているのを見ると引き返すのも惜しく、もう少しだけ歩いてみました。

3月末、春の花が一斉に咲いてなんとものどかです。

 

右手には小高い場所が続き、それに沿って坂川が流れていますが、やはり水の流れは北へと向かっています。

坂川というのは、北側から南へ流れる坂川と、南側から北へと流れる2本の坂川があるという意味でしょうか。よくわかりません。

 

徳川慶喜公と坂川*

 

しばらくすると、南西へと川が曲がるところに写真つきの説明板がありました。

「あなたも慶喜公気分」

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(1837〜1915)が明治38年(1905)四月二十八日にこの場所から撮影した写真です。

清らかな水が流れていた坂川の原風景です。すぐ近くの戸定邸(国指定重要文化財)に、とても仲の良かった弟徳川昭武が住んでいたので、彼は明治になってから度々松戸を訪れ、貴重な写真を残してくれました。

後ろ姿の人物が撮影中の徳川慶喜です。彼と同じく写真を趣味としていた昭武が撮影しました。

この写真が写された時から三八年前の慶応四年(1868)四月十一日、江戸城開場にともない、上野・寛永寺で謹慎していた慶喜は水戸へ向かい、最初に宿泊したのが松戸宿でした。

のんびりと撮影を楽しむ前将軍の背中に激動の時代を重ね合わせて見ると、坂川の風景も一味違って見えてくるようです。

 

ほんとうに。

小さな変哲もない川に見えても、やはりそれぞれの水の流れに歴史ありですね。

 

*小山樋門*

 

その徳川慶喜公が写真をとった坂川の屈曲した場所からもう少し歩くと、煉瓦造りの橋が見えました。

対岸に何か説明書きがあるので、引き返してみました。

土木学会選奨土木遺産 2016     小山樋門」とあります。

Wikipedia小山樋門によると、「1898年(明治31年)に坂川の逆流防止のため建設された」そうです。

 

1635年に利根川から開削された江戸川から坂川への逆流防止のためのようです。

1594年に利根川中流域で始まった利根川東遷事業は、その三世紀後もまだ周辺の水の流れを制しながら続いていたということでしょうか。

 

*坂川、逆さ川の歴史*

 

家に帰ってから、坂川の流路と沿革を読んでみました。

 

JR新松戸駅あたりからJRの線路に並走している水路は坂川の放水路で、やはりあの中洲のあたりで一旦、江戸川へと分流しているようです。

何本かの放水路で再び水を江戸川に流したのち、さらに松戸市を南下する。そして市川市国府台三丁目で本流が江戸川にそそぐ。 

 

ただ、この説明だと、私があの中洲のある場所で見た水の流れと逆方向になってしまいます。

また混乱してしまうのですが、「沿革」を読んでちょっと謎がとけました。

坂川は、昔は逆川(さかがわ)といい、沿岸は沼が点在する、葦の生い茂る低湿地であった。

「逆川」なので、やはりあの中洲あたりは江戸川とは逆の流れだったのではないかと。

 

では、国府台までの流れはどうなっているのだろうともう一度地図を見直すと、矢切の河岸になる坂下親水公園の少し南側に川が合流した部分が描かれています。

ここから南北へと分流しているのではないか。

いつかこの目で確認したい、また新たな散歩の計画ができました。

 

さて、坂川の「沿革」ですが、なんとなく地図で見つけて行ってみようと思った水色の線の、水との闘いの歴史に圧倒されたのでした。

坂川では1692年(元禄5年)の新田開発により、沿岸(現在の新松戸、旭町、栄町等)に新田ができた。

逆川はそれらの新田に度々洪水を起こし、3年にI度収穫があれば良い程度の不作ぶりであった。新田で堰を高くすると上流が洪水になってしまい、そのための争いも起こった。1781年、上郷名主の渡辺庄左衛門充房が国府台下までの掘削を始めて幕府に請願し、1801年に幕府が視察に訪れた。しかし、下郷7ヶ村(古ケ崎・根本・小山・上矢切・中矢切・下矢切・栗山)が干ばつの心配を恐れ反対し、結局その請願は保留となった。

1812年に渡辺庄左衛門充房が死亡し、翌年、渡辺庄左衛門(寅)のときに一本橋から松戸宿までの掘削が開始された。しかし洪水予防の効果がなく、さらに国府台下までの掘削の西岸までも繰り返したため、下郷7ケ村との対立は続いた。

1833年、渡辺庄左衛門(睦)が国府台下までの掘削の測量を開始したが、これに反対する下郷7ケ村の村民が反対のため浅間山松戸市)に立てこもり争いとなる。それが飛び火し、古ケ崎村から測量に来た百姓に死者まででる事態となった。見かねた奉行所の調停により、1835年から国府台下までの掘削が開始された。これにより洪水被害はやや収まった。

 

そして一見味気ない都市河川に見えた水路と、それに合流する小さな坂川の理由が書かれていました。

1909年に、樋野口に蒸気機関の当時、東洋一と言われた排水機場が造られた。また1932年(昭和7年)より新坂川の掘削が開始され、坂川を排水、新坂川を用水として機能するようになり、現在に至る。 

 

もしかしたら、私がイメージする上流から下流へと流れる一本の川とは違う、さまざまな方向に流れが逆らっていたものをまとめて「坂川」という総称になったのかもしれませんね。

大雨がくるとあちこちから水が押し寄せ、渦巻き、排水に苦労するような場所を思い描きましたが、どうなのでしょうか。

 

 

 

 

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