10時4分に西相生駅から赤穂線に乗りました。すぐに長いトンネルに入り、出るとそこには大きな川の右岸に沿って水田地帯が広がり、駅名も「坂越(さこし)」でまさに坂を越えたようにひらけた場所でした。
周囲の山々はやはり悪石地形です。
しばらくその大きな川に沿って走ると、播州赤穂駅に到着しました。
赤穂城への水路へは、駅前からハニーロードという通りをまっすぐ行けば良さそうなので歩き始めました。
途中の交差点で、何か記念碑のような案内板があるのでふらりと立ち寄って見ると、「旧赤穂上水道」と書かれていました。
旧赤穂上水道 導水路
江戸時代、播磨52万石を治めていた池田輝政は、備前国との境界であるここ赤穂の地に、城郭と城下町を整備しました。しかしながら当時の標高は約1mであり、井戸を掘削しても海水が混じるため、上水道が必要となったのです。
元和2(1616)年、熊見川(現在の千種川)を約7km遡った上流部において、約50間(約100m)の隧道(トンネル)を掘削し、上水道が完成します。以降、取水口は二度の変更がありましたが、導水路については現在もほぼそのまま残されて、近代水道が敷設されて上水道が役目を終えた現在も、農業用水路として利用されています。
導水路は開渠であり、戸島枡(とじまます)によって戸島用水(浅野時代に完成した農業用水)と分岐された後、城下町の北端にある大型の枡「百々呂屋裏大桝(ももろやうらおおます)」に接続します。このルートは、豊臣秀吉が毛利攻めのために築かせた道と伝えられ、江戸時代には「姫路海道」と呼ばれていました。導水路は、この道に沿って流れていたと推定されています。
この場所は、導水路と加里屋地区への農業用水との分岐点であり、一方は現在の農業用水へ、もう一方は城下町への導・配水に利用されています。現在、城下町内への導・配水ルートはかなり改変を受けてしまいましたが、各所の旧上水道モニュメントに水を運び、旧赤穂上水道の歴史と意義を伝える大切な役目を、現在も担っています。
そこから東側へとハニーロードを歩いて水路まで行き、水路沿いに赤穂城へと向かう予定でしたが、案内図を見ると、南側へと歩くとそこに「旧赤穂上水道モニュメント」と「百々呂屋裏大枡」があるようです。
江戸時代の上水道を見ることができるなんて、全く予期していませんでした。
嬉々として計画を大幅に変更し、南へと歩き始めました。
そして、車窓から見えた大きな川が千種川であるとわかりました。
3日目の計画はどこに降りるかぐらいしか大まかにしか決めていなかったのに、水の歴史を知る幸運な機会に恵まれたようです。
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