鵺(ぬえ)のような  7 「緊急事態宣言は意味があったのか」

新型コロナウイルスも第5波となると、ピークになって収まりつつある時期がなんとなく毎日の感染者数から見えるようになりました。

さすがに都内の数千人台の感染者数になった第5波が収まり始めるまでには、今までにない時間が必要でしたけれど。

 

急激に減少して1日あたり200人台になったときに、お店を開いている知人から「なんでこんなに急に減るんですかね?」と質問されました。

医療とは無縁の知人ですが、昨年の春からかなり正確に対応策を取り入れていた様子を知っているだけに、あれっ?と思いました。

 

私にはとても感染症の数理モデルを他の人に理解してもらえるような説明は無理ですが、「人の流れを少なくすることで、一人の人から次々と感染する機会が減るのかもしれませんね」「感染源になる人自体は少なくても、そこから何人にも移っていくから、増えるときは一気に増え始めて、減るときにも一気に減り始める感じかな」「だから第4波が収まりかけていた数百人台で緊急事態宣言を終了してしまったから、反動がすごかったのかもしれませんね」と説明しておきました。

 

あっているでしょうか。

 

医療という大きな視点でこの感染症の増減を感じる機会が少ないと、なかなかあの数理モデルは実感できないのかもしれないですね。

だから「緊急事態宣言なんて、意味があったのか」という不満につながりやすいのでしょうか。

 

 

*「個体の治療ということとは非常に違った発想が必要」*

 

感染症と数理」の「おわりに」に、こう書かれています。

それから、これは一般論ですけれども、実際にはウイルス性の感染症等は決定的な治療法とかはないですから、要するに流行を未然に防ぐ、あるいは発生しても小規模に終わらせるという、そのような社会的な介入とかが必要です。それは個体の治療ということとは非常に違った発想が必要で、場合によっては相反することもあるわけです。先に述べたように個体の治療行為が流行を促進する可能性さえありますし、ある種の不完全なワクチンが薬剤耐性を進化させてより被害を広げる等ということもあります。そうした思わざる結果を予測したり、効果的な政策を立案したり評価したりする上で数理モデルがぜひとも必要であるわけで、今後、数学、医学、疫学、生物学等が連携指定、このような感染症理研究というものを抜本的に強化していく必要があろうかと思います。

 

 

この1年9ヶ月ほどを振り返ると、感染が拡大しそうになると緊急事態宣言で人の行動を抑えるようにしたことで私にはコントロールできてきたと思えるのですが、「緊急事態宣言は意味があったのか」と感じる人がいることに人間の社会はややこしいものだと思いました。

 

一般の人がなかなか実感できないのは仕方がないとしても、この数理モデルを理解して政策を立ててきたと思っていた政治家の方から、「緊急事態宣言は意味があったのか」という発言となると大きく意味が変わってきますね。

 

人間の寿命、言い換えれば生活の質までも視野に入れた感染症対策のために経済対策をするのが政府の責任だと思いますが、これまで自分たちがしてきた政策は意味がなかったと言っていることになるのですから、社会は不安になりますね。

おそらく、自分のイデオロギーに囚われているゆえの発言に見えました。

だから、こんな国民の非常時に増税とか、緊縮財政とかつじつまの合わないことを言い出していたのですね。

 

今こそ、一世紀後二世紀後にも遺産となるような、国民のため、人類のための感染症政策の本質を確立できる機会のように見えるのですが。

今回の混乱を見ると、18世紀にはすでに感染症から社会全体をとらえようとして数理モデルを考えた先人がいたことに、あらためて敬意がでてきました。

 

 

それにしても緊急事態宣言が終わって10月に入ってからの、なんだか「コロナが終わった」みたいな雰囲気はちょっと不安ですね。

9月30日の通勤時に、すでに朝から酔っ払っている人を見かけるようになりました。

そこがポイントだと、まだ学んでいない世の中もどうなのかと。

 

この感染症にかかった場合、その後遺症で人生も大きく変わる可能性まで伝えられているのですけれど。

 

 

 

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