長良川河口堰と、揖斐川との間にある溢流堤までは歩いて渡れるようになっていました。案内図には「端から端まで15分」とありましたから、ぜひ渡ってみようとアクアプラザながらを出たのですが、長島駅に着いた時よりももっと風が強くなっていました。
河口堰の途中で長良川に吹き飛ばされそうな突風ですから、残念ながらあきらめました。
駅からここまではコミュニティバスを利用しましたが、長良川沿いを歩けば2kmほどですから、歩いて戻ることにしました。
長島駅にあった案内図に、近鉄線の鉄橋のそばに「長良川導水管理所」とあったので、そこを目指すことにしました。
すっかり稲刈りも終わった水田ですが、まっすぐな道でも水田地帯は全く苦になりません。
すぐ近くの長良川の堤防を眺めながらまっすぐ歩いていきました。
あちこちの用水路は、あの2ヶ月以上も浸水していた伊勢湾台風の後に造られたのでしょうか。
*小田江神崎(かんざき)神社*
長良川導水管理所の手前、堤防のすぐそばに神社がありました。
マップでも神社らしき緑色に描かれているのですが、神社名は表示されていませんでした。
立派な石の「御由緒」がありました。
天文十三年(一五四四年)七月小田江神崎(於多井川の川先)に勧請奉祀したものである。その後洪水また元亀天正の兵乱で、小田御崎砦の地であったため、社頭は大破している。慶長八年(一六〇三年)七月七日に神社を再営した。寛文七年(一六六七年)、藩主松平良尚が、社頭近くを往還の通るのを見て、堤奉行小林清左衛門を指図して、社頭を東表にして南方の薮下に往還(通路)を付替え、社の前後五十間の社地を与えている。当社は、二十年ごとに遷宮を行い、今もなお、受け継がれている。また大正四年(一九一五年)に豊受社(豊受大神)を奉祀している。
当社は、一説には天文十三年(一五四四年)の大水の時、上流から漂着した流れ宮を村民が拾い上げて、勧請したものであるとも伝えられている。
この社の対岸現在の桑名市蛎塚の揖斐川堤腹に蛇の宮という社がある。この社に大蛇が住んで、常にこの両社を往来しているので、この河川を船舶が通行する時は両岸の両社に向かって船頭が拝礼をしないと、川に濁流が渦巻いて、その船の進路をふさぎ、船を襲うと言い伝えられている。
よって、この当社においては、毎年八月七日の祭礼には篝火をたいて、夜を徹する行事が行われる。
これが俗に言う濁り祭である。
静かな境内のすぐそばの長良川の堤防の土手に上ると、穏やかに流れる美しい水面が見えました。
*長良導水*
堤防に上ると、「河口から7km」と「堤防の標高は海抜6.9m」と言う表示がありました。
すぐ向こうに小さな水門のような施設がありました。
もしかしたらここがあの知多半島への取水口かと思ったのですが、それにしては規模が小さいように見えました。
何か他の施設なのかと思ったら、少し離れたところに案内図がありました。
長良導水のご案内
長良導水は、長良川河口堰により利用可能となった長良川の流水のうち、最大毎秒2.86立方メートルの水を愛知県の水道用水として知多半島(半田市、常滑市、東海市、知多市、阿久比町、東浦町、南知多町、美浜町、武豊町)に供給する取水導水施設です。水資源開発公団はこのうち上流部約4.9kmの施設を建設しました。
「小さな水門」と思ったのが取水ゲートで、弥富ポンプ場、筏川取水場そして名港導水路を経てあの知多浄水場へと、淡水がはるばる送水されている図がありました。
数百年前と半世紀前、そして現代を行ったり来たりしながら、のどかで美しい水田地帯を歩いて長島駅に戻りました。
「水の神様を訪ねる」まとめはこちら。