水のあれこれ 172 佐布里池と水の生活館、「命の水」

地図で佐布里緑と花のふれあい公園を見つけたときにレストランもあることがわかり、ちょうど1時ごろに到着するので食事でもしようと計画していました。

 

公園の入り口には、湧き水を模したような水路があり、なんだかうれしくなって雨の中しばらくながめました。

着いた時には本降りで、雨宿りも兼ねてまずレストランに向かいました。想像していたより大きな施設で、中庭に池や水路があってその風景を眺めながら食事ができるようになっていました。

この人工的な水の流れも、愛知用水の歴史を知るとなおさら感慨深いものがありました。

新しい公園かと思うほど手入れが行き届いていましたが、2001年(平成13年)開園とありますから、20年経っているようです。

 

お昼ご飯を食べて、特産品コーナーをぶらりとしているうちに、雨が少しやみました。

今だと外へ出て、水の生活館を目指しました。

 

*水の生活館*

 

訪ねた日は、10分ほど外を歩いただけでも傘がびしゃびしゃになるほど雨が降ったりやんだりの天気でした。

愛知用水の経緯を知らなければ、海沿いなので雨が多いのだろうぐらいで、私が生まれた頃にはまだ深刻な水不足に悩まされていた地域だとは思えない雨脚でした。

 

検索しても愛知用水の情報がまだ少ないので、地図でこの水の生活館を見つけた時には、絶対に訪ねようと計画に入れたのでした。

 

雨の中でも公園を訪ねる人は結構いて、終わりかけでしたが梅の花を観にいらっしゃったようです。

そこから1kmほど、池と堰堤を歩いたところに水の生活館がありますが、そこまで歩いている人はいなくなりました。

佐布里池のそばをしばらく歩き、堰堤の上に来ると、水路とその先にある知多浄水場が見えました。途中、工事関係の人以外、誰とも出会わずに水の生活館まで歩きました。

 

愛知用水木曽川から取水していることは事前に知っていたのですが、この施設では長良川河口堰からも取水・送水されている説明がありました。

長良川の水を知多半島

長良川河口堰で開発された22.5㎥/sのうち、2.86m3/s(愛知県の水道用水)を知多半島に送水する施設が平成10年に完成しました。

長良川から導水路で弥富ポンプ場に送られ、そして海底を通って知多浄水場へと送水されている図がありました。

 

地図を見ただけではなかなかつながらない、愛知県内の水資源の流れを知ることができるのも、こうした資料館ならではです。

 

*「命の水」*

 

圧倒されながら資料を見ていると、小さな容器が展示されていて、「命の水」という説明がありました。

 知多半島には「知多の雨カエル」「知多の豊年くわず」といったことわざがある。雨ガエルは、日照りにもよく鳴く。知多が豊年になる程雨が降ったとき、他の地域では雨が多すぎて米が不作になるという意味である。川もなく地下水にも恵まれない知多半島の水不足の深刻さを表している。

 かつては、水稲用のため池が、一万五千もあった。その池には「池番」という見張り役を立て、集落の水を守ったという。

 生活用水にも事欠く状況で、師崎(もろざき)、篠島(しのじま)などでは真水の出る井戸が、各一つずつしかなかった。それも、白く濁った水だったという。

 井戸を掘っても赤水しか出ない離島の暮らしでは、「死ぬまでに一度でもいいから真水が飲みたい」というお年寄りがいるほどだった。

 人々は、雨水をバケツにため、井戸から汲んで来た水を何度も再利用した。知多半島の人々の生活はまず水を確保しなければ成り立たなかったのである。

 

そのための容器でした。

 

Wikipedia愛知用水の「用水がもたらしたもの」と重なる展示でした。

愛知用水はため池に頼っていた尾張丘陵部、知多半島の農業生産や井戸に頼っていた住民の日常生活を著しく向上させた。海水交じりの井戸水に生活用水を頼っていた知多半島南部及び日間賀島篠島佐久島の住民からは特に感謝されたという。 

 

「死ぬまでに一度でいいから真水が飲みたい」

私でもはるか昔のことのように感じたこの一文が、私が生まれた頃の話だったことが衝撃でした。

あの私が生まれた頃は、半数が自宅分娩だったと、助産師になってしばらくした頃に気づいたような、まだ歴史になっていなかった時間を知ったあの衝撃です。

自宅で家族に見守られたあたたかいお産なんて話ではなく、産科医どころか助産婦の立会いさえない過酷な出産の時代と、「死ぬまでに一度でもいいから真水が飲みたい」は重なっているのでした。

 

資料の説明が「いのちの水」とひらがなではないのは、そういう意味なのだと思いながら資料館を後にしました。

 

 

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