大幅に予定変更して案内板から南側へ曲がり、赤穂小学校の前の道をまっすぐに歩くと駅前通りとの三叉路に出ました。
その交差点の真ん中に、「旧上水道」の遺構が保存されていました。さらに数十メートル歩くと、赤穂情報物産館の広場があり、「息継ぎ井戸」がありました。
息継ぎ井戸
元禄14年(1701年)3月14日に江戸城松之廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を切りつけるという刃傷事件(にんじょうじけん)が起こりました。早水藤左衛門(はやみとうざえもん)と萱野三平(かやのさんぺい)がその大事件を知らせるため、江戸から早駕籠(はやかご)に乗り4日半かかって19日の早朝赤穂城下に到着しています。その時、この井戸で二人の使者が水を飲み一息継いで赤穂城へ向かったと伝えられています。
ちょうど播州赤穂駅についたときに、直前に赤穂義士祭が行われていたことを知りました。高校時代に赤穂浪士の討ち入りについてもさらっと習ったあと、人間関係から歴史を覚えるのが苦手な私はそれ以上知ろうとしていませんでしたが、赤穂上水道やその井戸からこの地域の歴史を知るきっかけができました。
息継ぎ井戸から中央通りをまっすぐ東へ歩くと、200mほどで赤穂城へと繋がる水路を越え、さらに数百メートルほど歩くと千種川の堤防に出ました。
北側の山あいからゆったりと流れる千種川は、揖保川に似ています。
その水面の美しさに、しばし座って眺めました。
一旦、西側へと戻り、今度は水路沿いに北側の山にぶつかるあたりまで歩きました。
山肌に沿って水路があり、小さな水門がありました。
戸嶋枡
熊見川(現在の千種川)の上流約3mにある木津取水井堰からの水を(ここから一部字が消えて読めないのですが、おそらく「加里屋」)・新田へと分水する分岐点であり、水を浄化する役目もあった。
ここで、先ほどの赤穂城への水路と、西側の山肌に沿った水路に分かれて赤穂市内へと分水されていたようです。
地図では、この戸嶋枡から西側に400mほどのところに北野中浄水場があります。
西へと分水された水路にはわずかの水が流れているだけでしたが、蛇行した道に沿って流れていましたから、近隣に今も残る畑を潤してきたのかもしれません。
*江戸三大上水から現代の上水道へ*
赤穂市の概要を読むと、千種川により、現在も水に恵まれているようです。
市の中心部を流れる、千種川(名水百選)の豊富な水系に恵まれた赤穂市は水道料金(簡易水道を除く家庭用水道料金)が国内で一番安い。元和2年(1616年)に敷設されたとされ、現在でも市内の随所にその遺構が残る赤穂上水は、神田上水(東京都)福山上水(広島県)と並んで日本三大上水道(江戸三大上水道)のひとつに数えられる。
千種川は、あの市川と揖斐川を検索して初めて知った「播磨五川」の一つでした。
今回は河口付近の悠々と穏やかな流れを見ただけでしたが、やはり大きな水害もあったようです。
1976年(昭和51年)9月10日ー台風(昭和51年台風第17号)の接近に伴う集中豪雨により氾濫。赤穂市市街地へ濁流が流れ込み、中心部の約1万戸が床下浸水の状態となった。
なんとなく決めた播州赤穂駅での途中下車でしたが、千種川と赤穂上水道の歴史を知ることができました。
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