倉敷周辺を歩く1泊2日の旅でしたが、1週間ほどその回想をプログに書き続けたにも関わらず、まだまだ書き切れていないことが思い浮かんでくるほど百聞は一見に如かずの旅でした。
用水路や干拓地の歴史を見たみたいという目的の他に、もう一つ目的がありました。
それは、あの幼児から小学生の頃に見た木のない山がどのあたりだったのか、今はどうなっているのか見届けることでした。
母の記憶では、備前市あたりではないかとのこと。もしかしたら陶芸の釜のために伐採されたのだろうかなど想像しました。
行きの新幹線は残念ながら通路側の席しかなく車窓から確認することを諦めていたのですが、なんと幸運なことに新神戸で窓側に座っていた方が下車し、ずっと窓の外を見ることができました。
相生のあたりからでしょうか。小学生の頃までの記憶が蘇ってくるような山が見え始めました。
ただ、松の木だけがぽつんぽつんとまばらに残っている山はなくて、どの山もそれなりに雑木林で覆われています。
ところどころに石が露出しているぐらいでした。
<山の違いが記憶にあった>
こちらの記事に書いたように、幼少の頃は武蔵野台地に住んでいて、遠くには山が見えたかもしれませんが周囲は平坦な土地でした。
ですから「山」のそばに引っ越すと聞いて、「山ってどんな感じなのだろう」と幼い想像力を使って絵を描いた記憶があります。
そして父の転勤に伴って、山に囲まれた風景を見ておそらく相当驚いたのだろうと思います。
ですから、その頃の記憶には深い緑色の山々の背景が必ず思い浮かぶのです。
ところが倉敷がある瀬戸内海周辺の「山」は、自分が住んでいる地域の深い緑色に覆われた山の風景とは何かが違う。
どこかにその印象が残り続けていました。
その違いは、ところどころ石がむき出しになった風景であることを、今回感じました。
そして子どもの頃に過ごした地域を含めた関東近郊の山と違って、木の生え方が粗だという点も見ていて感じたのですが、ただの印象に過ぎないのかもしれません。
残念ながら、1960年代から70年代にかけてその周辺の山についての写真や歴史まではたどり着くことができませんでした。
<「悪石地形」>
帰りの新幹線を待つ間にふらりと立ち寄った書店で、「岡山の『災害』を科学する」(岡山理科大学『岡山学』研究会、吉備人出版、2012年3月)を見つけました。
その中に、あの石がむき出しになった状況を「悪石(あくせき)地形」と呼ぶことが書かれていました。
空気や水は花崗岩を構成する鉱物と化学反応して、岩石をぼろぼろにしていく。硬い岩石が空気や水と反応して砂や粘土のように変質していく一連の作用を風化という。地表では花崗岩の岩盤に生じた割れ目より空気や水が浸透し、割れ目の面からその内部に向かって風化が進行する。風化の度合いは割れ目の近傍ほど強く、内部に向かって段階的に風化の進み方が弱まり、その結果、岩盤が風化された砂や粘土を皮として被ったような構造を示すことがしばしばある。このような風化様式をたまねぎ状風化という。また、たまねぎ状風化が起こった結果、割れ目内部には風化していない岩盤が礫状に残る。この風化に残った岩塊はコアストーンといい、風化にさらされた時間が長いほど、また、岩盤の浅所ほどコアストーンは小さくなる。
ある程度たまねぎ状風化が進行した段階で、風化した部分が風雨によって削り取られると、コアストーンのみが地表部分に累積したような地形が形成される。地表部分に花崗岩が直接露出し、植生の発達が良くないことが多いことから悪石地形と呼ばれるが、花崗岩分布地域ではこのような地形はしばしば見られる。瀬戸内海沿岸地域では、温暖少雨の気象条件を始めとして、土地利用、山火事なども作用して悪石地形が各所に見られる。風化後風雨によって削られた部分は、沿岸に花崗岩由来の石英を含む砂を堆積させ、白砂青松と悪石地形の岩山が織り成す瀬戸内海の独特の景観を作り出した。これら地形の形成過程は長い時間をかけて、自然の営みとして続いてきたものである。しかし、この風化・削剥の過程が、時に急激に進行することがあるが、それが人間生活に影響を与えると土砂災害となる。 (p.14~15)
倉敷周辺の甚大な自然災害は記憶になかったのですが、あの東日本大震災が起きた2011年には倉敷でも珍しく豪雨が5月に2回あり、土砂災害が起きていたことをこの本で知りました。
森林がまばらに感じたのも、森林が発達しにくい地質だったのですね。
新幹線の沿線を見比べると、関東では丘陵の上まで森林が伐採されてぎっしりと家が立ち並ぶ風景が続いていますが、倉敷周辺の地形や地質は宅地には向かないのでしょうか。
半世紀前と同じように、ところどころ岩肌がむき出した山が美しい紅葉に包まれて風景を作り出していました。
「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら。