米のあれこれ 33 「井田」

伊里地区の議事録を読んでいたら、干拓地だろうと気になっていた場所の話もありました。

 

2年ほど前に区長をやらせてもらっていました。歴代の区長が市に要望したことを調べていましたら、何十年も井田の樋門の改修について市に要望をあげています。昭和51年の大災害で伊里川が決壊して縷々修理をしたときに、今の形の樋門ができたと思います。それ以来きちんとしたオーバーホールもなされず、市から委託を受け、井田地区で管理をしています。潮の干満に合わせて、夜中の3時だろうが4時だろうが樋門を開けています。井田地区も前は20軒ほどでしたが、今は200軒を超える世帯になっています。伊里川がひとたび氾濫すると升目のようになっているので、水が溜まり避難命令が出ても動くことができません。市道はすぐ冠水します。

 

伊里川の河口付近に干拓地のような場所があり、伊里川左岸の山の方に井田神社がありますから、この地域のことのようです。

 

*「井田跡」*

 

戦後の干拓地だろうかと気になり、検索したら「真魚市と伊里周辺の街並み」というふるさと起こしプロジェクトのサイトにその歴史が書かれていました。

 

知らなかった町の魅力を発見

最後の立ち寄りスポット「井田(せいでん)跡」は江戸時代、350年前に造られたもの。特定史跡「旧閑谷学校」とおなじく、日本遺産認定「近世日本の教育遺産群」の構成文化財の一つ。寛文10(1670)年、備前岡山藩主・池田光政重臣の津田永忠に命じて干拓地を新田に造成する際、中国周時代(紀元前1,100年頃)の井田制を適用しました。南北に長い長方形の上井田と正方形の下井田があり、下井田は閑谷学校の教育を守るため学校田に割り当てられたといいます。「後楽園にも100分の1規模の井田が設けられていますが、こちらが本物です。このような遺構は国内ではここだけ、貴重なものです」。

 

井田制とは全体を「井」字形に9等分した区画の中央に公田を配置し、周りの8つが私田で、中央の公田の収穫を租税として納めるもの。税率約1割の理想的租税制度といわれる。

 

なんと江戸時代のもので、「いだ」と読むのかと思ったら「せいでん」でした。

地区名は「いた」と読むようです。

 

その水田に設置された説明碑の写真が掲載されていて、こんなことが書かれていました。

 のち池田公は後楽園の中に、この井田の模型をつくり農作業をさせてその労苦を感知したという。明治になり「井田」の名が廃れることを惜しんだ住民が、上井田の公田戸舎あとに、山田方谷の撰文、織田玄渓の題字に夜「井田碑」を建立した。

平成二年には井田開田三百年記念事業として隣接地に井田の模型を造って、後世に先人の偉業を伝えることにした。

 

ああ、途中下車すればよかったのに残念。

 

干拓地もほんとうにそれぞれの地域のそれぞれの歴史や生活がありますね。

 

 

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