米のあれこれ 45 牟田

大牟田駅で西鉄に乗り換えたのは、大牟田から柳川までの干拓地をみるためでした。

 

昨年、念願の佐賀のクリークを訪ねて歩くことができました。この複雑な水路と水田地帯を知ることができたのは、自由に拡大したり縮小し、地球上のどこまでも見ることができる地図のおかげでした。

 

この時に佐賀駅から福岡県柳川まで行く路線バスがあることを知り、いつか筑後川左岸側の柳川のクリークも歩いてみたいと思っていました。

ここも地図を拡大すると鳥肌が立ちそうなほど水路が入り組み、そして航空写真に切り替えると今でも水田地帯であることがわかります。

柳川の水路というと観光で有名ですが、私は水田のそばを歩いてみたいと思っていました。

 

今回は三泊四日と今までで最長のスケジュールでしたが、大分から熊本までの計画を詰め込んだので、柳川のあたりを歩くことは無理そうです。

計画の段階で、「やつしろ干拓の歴史〜わが田は緑なり〜」の「干拓の地名など」に目が止まりました。

 八代平野干拓地にはめずらしい地名がたくさん残っています。そのどれもが、昔は海の近くにあったという意味で干拓した土地という意味などからつけられています。たとえば‥。

古賀

これは、もともと海であった所が「陸(「クガ」という)」になった所で、「クガ」が変化して「コガ」と呼ばれるようになったのです。(古賀浜町、古賀上町、古賀出町など)

牟田

「ムタ」には、湿地(ジメジメして水分が多い土地)を意味しています。新しい、古いをあらわす「新牟田」、位置をあらわす「中牟田」、広さをあらわす「太牟田」、そこに生えていた植物(アシ、ヨシ)をあらわす「葭(よし)牟田」などの数多くの牟田の地名がつけられたのです。

「ワリ」には、干拓地を区切ること(地割り)を意味します。たとえば「郡築一番割」「大井手東割」など八代平野干拓地のあちこちには町名や字名として数多く残っています。

 

「牟田」も干拓地に由来していた地名と知り、大牟田のあたりを地図で眺めました。

大島、小浜町、天領町、高砂町といった南側の地名のある場所から、「新開町」「昭和開」といった地名が見つかります。そのまま地形が思い浮かべられそうですね。

 

そして山側を走るJR鹿児島線から分かれて西鉄天神線に沿ってみていくと、矢部川を渡ったあたりからほとんどクリークのような場所になり「牟田口」「古賀」「八丁牟田」といった地名がありました。

車窓からこの地域を見るだけでもいいと、大牟田駅西鉄線に乗り換える計画にしたのでした。

 

跨線橋から大牟田駅周辺の平地が一望できました。

9時24分発の特急福岡行きに乗り、ロングシートなので座らずに立って車窓を眺めることにしました。

大牟田駅を出てじきに左手に島だったような小さな山を越えると、そこからはただただ水路と水田の世界になりました。

線路のすぐそばまで曲がった水路が近づいては離れ、ところどころ幹線水路や排水路のような水路が見えるのですが日本各地の整然とした水田地帯や棚田ともまた違う水田風景です。

地図ではあんなに複雑に入り組んだり曲がったりしているのに、それすらもやはり整然としています。

 

今はりっぱな地面のはずですが、なんだかフワッと漂う浮島のようにも見えてきます。

 

九州農政局の「有明海東部地区の歴史」にこんな説明がありました。

水の都、柳川

 

 「50年に一干拓」と言われた有明海干拓有明海東部地区の事業地域である柳川には籠(こもり)・搦(からみ)・開(ひらき)・新開など独特の地名が残っており、盛んに干拓が行われたことを今に伝えています。堤防に囲まれたひとまとまりの水田が魚鱗のように並んで次々と海に向かって付け足されていきました。

 そうして出来上がったウロコ状に広がる干拓地。そのほとんどは、極端な低湿地です。

 満潮時、海面より低くなる干拓地。一度大雨が降れば平野全体が水浸しになってしまいます。人々はいたるところに溝を掘り、地面を高く盛り上げて排水を図りました。これらの柳川の街に張り巡らされた水路網はクリークと呼ばれます。クリークは満潮時に海水により押し上げられた淡水を取水する淡水(あお)取水の際にも利用されました。つまり、クリークは単なる川ではなく貯水機能を有するいわばため池のような役割を果たしていたのです。

 16世紀の終わりごろ、柳川一帯を治めた田中吉政は海岸に20kmにも及ぶ堤防を造成し、総延長470kmというこのクリーク網を整備しました。また、クリーク網全体で水制御を図るため、何千にものぼる樋管、樋門などでクリークの水量を調節し、壮大なシステムを築きました。柳川で行われたこうした徹底的な治水利水工事によって、平野全体に及ぶ水体系の基礎が築かれたのです。

 

車窓には息を呑むような水路の風景が続き、メモには「水路、すごい」「特急からでもはっきり見える」「小舟が通りそうな水路」だけ書き残していました。

 

 

西の方に佐賀県の山並みが見えました。

千数百年をかけて作られた有明海沿岸の平野の風景にただただ圧倒されました。

 

 

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