日生の風景に名残惜しさを感じながら、11時56分の赤穂線に乗りました。
岡山方面からの列車が到着すると、また地元の人だけでなく観光客が降りてきました。
赤穂線がこの日生駅まで延伸したのが1956年のようですから、まだ自家用車を持つ人が少ない当時は美しい海岸を歩き美味しい海の幸を食べに多くの人が喜んだのかもしれませんね。
11時56分の赤穂線下りは、「福山行き」ではなく「備中高梁行き」でした。
赤穂線は東岡山までなのですが、山陽本線に乗り入れて福山まで行く路線と、さらに倉敷駅から伯備線に乗り入れる路線があるようです。土地勘がないと間違えて大変そうですが、一本で行けるのは便利ですね。いつから福山や備中高梁行きへ乗り入れたのか、頼みの綱のWikipediaにも書かれていないようです。
日生の次が目的地の伊里駅です。
干拓地を見逃さないようにと南側の窓に集中していたのですが、日生駅を出るとしばらく「山あい」を走り、6分で到着しました。
地図でもう一度確認すると、「山あい」だと思っていた場所はもしかすると、長い時間をかけて浅瀬を陸に変えていったかのような島との間のように見えます。
ちょうどその3ヶ月前、12月中旬に淡山疏水・東播用水や揖保川を見に行ったときに通過してしまった伊里駅に降り立ちました。
線路はまっすぐ、伊里川にそって海側から山側へと通っています。今乗ってきた黄色の鮮やかな列車が山の方へと消えてきました。
*井田(せいでん)跡を訪ねる*
線路の西側は道を隔てて伊里川が流れ、東側は水田地帯が広がっています。
駅には井田跡への案内がなかったのですが、到着する直前に水田の真ん中にある石碑を見つけたので、そこだと確信しました。無人駅から北へ200mほど迂回して、その石碑を目指しました。
畦道には春の草花が咲きウグイスも鳴いてのどかな中、田起こしが始まっていて、この辺りも祖父母の水田と同じ白っぽい土でした。
前回、途中下車すればよかったと、帰宅してから後悔したあの井田跡は水田の真ん中にあるので畦道を歩くようですが、途中の水路の工事のために通行禁止になっていました。
ああ。
他の畦道を迂回すれば行けそうでしたが、勝手に農道を歩くのはダメですからね。
まあ、雰囲気だけでもわかったので諦めようと、近くにあった井田地蔵をお参りして伊里川を目指して歩き始めました。
と、数十メートルほど歩くと、なんと井田跡への道案内がありました。
畦道を歩いても大丈夫なようです。
石碑が立っているのが税を納めるための「公田」で、その周囲の8枚の田んぼはまだ現役のようです。石造りの水路には水が流れていました。
*伊里川沿いに歩く*
いったん線路を越えて、今度は伊里川沿いを歩きました。
山側の道沿いには家があり、伊里川は水田地帯より高いところを流れていました。天井川なのでしょうか、それとも干拓地として開拓された場所なので、水路を高い位置に通したのでしょうか。
ゆったりと水が流れ、左岸側の土手には遊歩道があり、咲き始めた桜の下に伊里川を眺めるかのようにベンチがありました。
200mほど先は、瀬戸内海の水面が輝いています。
なんと美しい場所でしょうか。
頻繁に浸水していた場所とは思えないのどかさです。
その移転した学校はどの辺りだろうと地図を見ました。てっきり「高台」だと思っていたのですが、駅舎とあまり変わらない高さの場所のように見えました。
河口にある荒神社を訪ね、そこから西へと国道を一本入った道を散策しました。
どこまでも穏やかな瀬戸内海がそばに続きます。
13時37分の備前市営バスに乗りました。乗客は私一人で、ずっと海岸線の美しい風景を独り占めしながら、 懐かしい西片上から備前片上駅までの風景です。
赤穂線に再び乗って吉井川を渡ると、上流側に取水口が見えました。
岡山駅に到着。
今日は日生でトンビに襲われそうになりながら食べたおにぎりだけなのでお腹がすきましたが、次の目的地に向かいます。
「落ち着いた街」まとめはこちら。
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